「ユーラシア放浪」2

シベリア鉄道での出会い  
             
畔上 明

格安航空券という渡航手段が出回る以前の1970年代、ヨーロッパに向かう若者たちにとってはナホトカ航路で大陸に渡りその先ソ連国内を通過するというのは一般的な旅行ルートでした。
横浜港からの2泊3日の航海を共にした300名の船客の大半は、ソ連国内の航空運賃が安価なことからハバーロフスクからモスクワ迄は空路を利用します。しかし、ほぼ同じ料金であっても8,500キロの大地を一週間かけてじっくり這うように移動したいと望む十数人がシベリア鉄道の客となるのでした。

シベリア鉄道を勧めてくれたのは我が恩師。この鉄道の歴史はロマンに満ちています。条件反射で知られるパヴロフの門下生でもあった推理作家・木々高太郎(林髞)、それに女流作家の林芙美子、宮本百合子、与謝野晶子、ヴァイオリニスト小野アンナさんと結ばれた小野俊一、朝日新聞特派員としてロシアに赴任した二葉亭四迷、5年間のペテルブルク滞在ののち旅順港で戦死した広瀬武夫……彼ら鉄道開通初期の乗車体験談。更に鉄道が敷かれる以前の福島安正や黒田清隆、西徳二郎、榎本武揚、徒歩でシベリアを横断したという黒野義文について、或いは江戸時代には大黒屋光太夫に代表される13件の漂流事例174名にも及ぶ漂流民らが浮かんでくるのでした。

凍り付いたシルカ川

退屈しのぎにと数冊の本を持参、変化の乏しい景観に眠気が襲ってくるのではとの懸念もあったのですが、とんでもない、日々列車内での人との交わりは飽くことがありません。4人部屋コンパートメントに20人もの老若男女がすし詰めになって、酒盛りをしたり歌を歌ったり、様々な言語が入り乱れて不思議なコミュニケーションの場が醸し出され、社交性に欠けていた自分自身その雰囲気に溶け込んでいったのです。

長い長い列車
掃除中の車掌タチヤーナ・アンドレーヴナ

1972年学生時代のソ連周遊の旅では、ジェーニャ・ガルムィシェワさんという大柄なからだつきながら美しい顔立ちの中年の女性とシベリア鉄道で知合いました。満洲で日本人男性と結婚し戦後は東京の目黒に住むようになった経緯、白系ロシア人であっても訪ソが可能な時代となったことの説明、そのためノヴォシビルスクの親戚との数十年振りの再会に期待している胸の内を語ってくれました。日本に戻ったらハルビン学院卒業生の方たちと共にその年の10月末には新宿に「チャイカ」というロシア料理店を開くので是非来て下さいとのお誘いを受けました。そして、鉄道で仲良くなった日本人が帰国するごとに「チャイカ」を再会の場としたものでした。
(その後ジェーニャさんは白系ロシア人と再婚しオーストラリアに移住。「チャイカ」は高田馬場へと場所を変え52年経った現在も営業を続けています。)
チャイカ

デイヴィドとジル・ライネというイギリス夫妻とも知り合いました。彼らが翌年バミューダ島に移り住むという話を列車に揺られながら聞かされたのでしたが、驚くことに2017年、45年の歳月を経て最早未亡人となったジルさんがバミューダから近況を知らせる便りを送ってきたのです。シベリア鉄道が魔法をもたらしてくれたという思いさえしました。それ程に鉄道の旅で築かれた絆は強かったといえるのでしょう。シベリア鉄道の友として長年交流を続けていた北海道在住の建築家に伝えたところ、旅仲間の思い出は昨日のことのように忘れ難いと、彼は2017年バミューダへと旅立ち再会を果たしてきたのでした。

1972年 シベリア鉄道にてモスクワに到着した時の撮影 右上の二名がデイヴィドとジル夫妻、後部中央の男性が2017年にジルさんと再会するためにバミューダへと旅立った北海道の建築家

2度目のシベリア鉄道体験となったのは1976年、9ヶ月にわたるユーラシア大陸放浪へと足を踏み出した3月下旬のこと。マイナス10度の外気、車内は30度近くもの暑すぎるほどの暖房、車窓は白樺と雪の白い景色がいつまでも続いていた中での思い出が以下の話の始まりでした。

シベリア鉄道車内での日本人の乗客は男性7名、女性4名で皆20代。女性の中に着物姿となった方がいたため話を聞くと、武蔵野音大を卒業したばかりの22歳で、旅の目的地ハンブルクにフィアンセが待っているとのこと。私が東欧を巡ってそののち3ヶ月ばかり先となるがドイツに到着したら旅のご無事を確認したいとの思いを伝えると、島田由美子さんというその女性は屈託なくヴォルフガンク・ステューフェさんという婚約者の住所と電話番号を教えて下さったのでした。

1976年 シベリア鉄道にて(赤いコートが由美子さん)
列車の廊下にて(着物姿が由美子さん)

そして予定通りほぼ3ヶ月経ての初夏、旅の10番目の渡航先国となった西ドイツへとやって来た6月22日に、新婚1ヶ月目となるユミコ・ステューフェさんと再会することとなったのです。

エルベ川北部ハンブルク市の中心部にはアルスター湖がビル群に囲まれて広がり、鴨や白鳥に老夫婦が投げるビスケット、首を伸ばしてお菓子に食らいつく白鳥の群れ、ヨーロッパの北部であることが感じられます。


ハンブルク中心部のアルスター湖

ステューフェ家に電話を掛けたところ、母親の声で「家は市の南17キロほど郊外のハールブルク、152番バスに乗って下さい」と、私が来ることを予知していたかのような対応で、そのドイツ語の説明を何とか理解することが出来たのでした。実家から7キロほど離れた新居に息子夫婦がいると教えられた、その住所を見付けだすのに歩きに歩きました。そこは緑の色彩に満ち溢れた地区で、邸宅にはそれぞれ広い庭があり、馬の繋がれた庭なども見られるのどかで気持ちの休まる環境です。

陽も暮れかけた頃、ようやくステューフェさんご夫妻宅にたどり着きユミコさんとの再会。優しそうな夫ヴォルフガンクさんとの幸福そうな表情を目にして、ホッと安心し嬉しさがこみあげてきました。

ステューフェ夫妻

コニャックでの歓待、そして何のてらいもなく泊まるようにと引き留めてくれます。長居するつもりではなかったのですが、お言葉に甘えて新婚宅に三連泊もしてしまったのでした。ユミコさんのタフな人柄がおふたりのやりとりから垣間見えます。26歳のヴォルフガンクさんは時折「オイシー」、甘えて「バカ」、「ゴメン」と片言の日本語を口にします。
ユミコさんはホテルの土産店でパートタイマーとして働いていましたが、合間をみては歴史博物館を案内してくれたり、お姑さんの働くデパートや、ヴォルフガンクさんの仕事先へと連れていってくれました。
彼の勤め先は市の中心部にある運輸関係の会社です。ビルの裏手の居酒屋で落ち合って、揃ってビールを飲みました。業務の厳しさ故か社内でつらい嫌なことがあったようで、それがたまりにたまったという感じで、ユミコさんの顔を見るなり夫は涙ポロポロと泣き出したのです。そして、私に向かって「ゴメン」と口にした途端、夫婦の間でドイツ語での早口のやりとり、ドイツ語部外漢の私にはチンプンカンプンでしたが、そうこうしているうちにヴォルフガンクさんの心も和み落着いてくる、そんな夫を支えるユミコさんの健気な姿を拝見しているうちに、おふたり結婚されて本当に良かったと思えてくるのでした。

一人で私が下町を歩き回った末に、警官立入所の横から鉄の扉を潜るとそこが名高い「飾り窓(レーパーバーン)」であったという顛末、その一角を通り抜けた体験を語ると、ヴォルフガンクさんは日本語で「スケベ」と言ってからすかさず「ゴメン」のひと言。厚化粧をした女性がずらりと並ぶ通りは、腰が引けるというか、ヴィクトル・ユゴー「レ・ミゼラブル」のコゼットの母親ファンティーヌを思い出してしまったのでしたが。

この先北欧に旅立つ話をすればヴォルフガンクさんは仕事柄もあってか気を回し、時刻表を取出すや列車の席を心配してくれます。翌日には奔走して予約席を確保してくれた、そんな面倒見のよい方なのでした。
別れの日にご夫妻は友人夫婦と共に歓談の場を設けてくれました。北欧に向かうハールブルク駅まで見送ってもらった時には、お菓子やリンゴ、手許にあった日本語の本や雑誌などのお土産を持たせてくれたのでした。

半年ほど経って私の放浪も終わりを迎え日本に帰ることとなってからは、手紙でのやりとりがありました。更に数年後ユミコさんが一時帰国するという機会にはお互いの子供を連れての再会となりました。
ユミコさんは学び直しのためドイツの音楽学校に入学、ロシア・ピアニズムの教授法を習得し、その後はハンブルクでのピアノ教師としての仕事に携わるようになったのでした。

1999年ハノーヴァーでの会議に出席した私は、北ドイツへの出張ついでに23年振りにハンブルクに立ち寄る好機を得ました。そこでステューフェさんご夫妻と再会。お互いすでに壮年期を迎えていました。ユミコさんは相変わらず活動的です。車を運転してハンブルク近くの運河や水力式リフトなどを案内してくれ、ピアノの教え子にロシア人少女がいるとのことで、夕刻には近郊のロシア村へ連れていってもらうこととなりました。
ユミコさんの話によると、ペレストロイカ以降ロシアからドイツへ移り住む人々がかなりいるものの、ドイツの各都市には言葉の問題を乗切ることの出来ない移民が都市郊外に固まってロシア人コミュニティをつくっているとのことです。街外れに行ってみれば正にポツンとロシア風の村が出現。ユミコさんはその中の一軒に入っていき、私も彼女の紹介で一緒にお邪魔したのでした。少女がピアノを練習している間、私が父親にロシア語で話しかけてみると、堰を切ったように一家の歴史を語り出しました。

18世紀後半ロシアの発展に力を尽くしたエカチェリーナ二世はドイツから嫁いだ女帝であった、そのため多くのドイツ人技術者をヴォルガ川畔りに入植させた。特にサラトフ市はソ連時代にはヴォルガ・ドイツ人自治共和国の首都としてロシアの中のドイツといった拠り所となった。しかしスターリン時代にはドイツ人はことごとく敵だと憎まれる羽目になり、その地域に住んでいたドイツ人は中央アジア-主にカザフスタンへと強制移住の憂き目に遭った。200年前の祖先より代々ドイツ人としての誇りをもって生きてきたのに、アルマ・アタからハンブルクへとやって来てみればドイツ語のしゃべれぬロシア語話者となってしまっているため、周りからはロシア人と言われる、ロシアではドイツ人と言われていたというのに。そしてドイツ語が十分に出来ない為容易に仕事にもつけない状態だ、と嘆きは止まりません。

あれから四半世紀が過ぎて、ロシア人コミュニティはドイツの中でうまく溶け込んでいるのでしょうか。おそらく時間が解決していることであろうと思うのですが。
ユミコさんは現在もピアノ教師を続けていて30人ほどの生徒さんを抱えているとのこと、そして音楽関係でのロシア人、ウクライナ人との交流もあるようです。お互いに孫の成長を喜び合う年齢になってきていますが、ユミコさんのたくましさはシベリア鉄道で出会った48年前のパワーがそのまま続いているのではないかと思えるほどです。

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