片山ふえ
お待たせいたしました。
皆さまとご一緒に「大きな木の家」の扉を開けたいと思います。
まずは、この「ふえと大きな木の家」というネーミングにこめた想いを聞いてくださいますか。 “大きな木の家を建てました!” の続きを読む
「大きな木の家を作って、みんなで語り合いましょう」、そう夢見たピロスマニに心を寄せて
片山ふえ
お待たせいたしました。
皆さまとご一緒に「大きな木の家」の扉を開けたいと思います。
まずは、この「ふえと大きな木の家」というネーミングにこめた想いを聞いてくださいますか。 “大きな木の家を建てました!” の続きを読む
シャガールの自伝「私の人生」はすでに邦訳が2点ありますが、実はこれらの訳には不明瞭な点がいろいろあります。「We Love 遊」誌上でシャガールの画の画期的な解釈を披露して大きな反響を呼んだ角伸明氏は、従来の不明瞭な点を明らかにするために、今「私の人生」を新たに翻訳中です。なぜ、新しい翻訳が必要なのか――角さんの説明をお聞きください。 (片山ふえ)
尚、「We Love 遊」の記事の一部を、「リバイバル」の項に載せていますので、そちらもぜひご覧ください。
畔上 明
若き日の揺れ動く心をかかえて横浜を出たのは1976年3月26日のこと。9ヶ月の長きにわたった私の放浪の旅の始まりでした。ナホトカ航路からシベリア鉄道の道中では日本人旅行者との出会いと別れがありましたが、モスクワから先はいよいよ日本人一人旅です。
濱口 十四郎
子供の頃の私にとっては、水屋の上に置いてあるラジオがなによりの娯楽だった。遊び疲れて帰ってくると流行り歌がながれていて、夕飯の支度をしながら母がそれに合わせて、素っ頓狂な声を張り上げている。私は逃げるように戸外の風呂場に飛び込んで、『母のブギウギ』をやりすごす。そして囲炉裏を囲んでの食事になると、ラジオから先ほどまでの流行り歌を諭すように「トクトミロカ サク『ミミズノ タワゴト』・・・」と、落ち着いた声(いま思うと徳川夢声か・・・)が聞こえて来た。
1979年8月、わたしは、フローレス島にはじめて降り立った。フローレスは、インドネシア南東部にある、四国より少し小さい島である。同行者は、1978年に学生結婚した夫。ともに文化人類学研究者の卵。すくなくとも何かの卵だった。双方の両親の意向に便乗して結婚式と披露宴はそれなりに豪華だったが、新婚旅行はなし。アルバイトと奨学金暮らしという経済的理由も多少あるが、「愛のくらしに、新婚旅行は必要ないわ」という、理想に燃えた――鼻息荒い――「卵」特有の理由もあった。1979年から約2年に渡るフローレス島でのフィールドワークは、文化人類学研究者をめざす卵たちにふさわしい、ながーい新婚旅行でもあった。
~お正月に思うこと~
ミルチャ アントン
(ロシア語の原文は、日本語の後にあります)
ときどきロシアの友人たちから、「日本にもあったらいいのに、と思うものって、なに?」と聞かれる。そりゃ、ビーツの料理とか、サバの燻製とか、お母さんのボルシチとかもそうだけど、お正月を迎えるのにこれがないとさびしいなぁ!と思うものがある。それは、ロシアの正月のお祭り気分だ。
『死者』~屋根の上のバイオリン弾き
「We Love 遊」に連載された「ユダヤ人画家シャガールの面白さに惹かれて』第3回と第4回からの抜粋で、角さんの「絵解き」をご紹介しましょう。ここで取り上げられている絵は、1908年作『死者 Покойник』です。
狩野 香苗
現在68歳の私は、子どもの時から大の本好き。手当たり次第に本を読み漁り、大きくなったら本を作る人になると決意していた。その夢を実現させるには、かなりの遠回りを要したのだが、雑誌編集者を経て40代で書籍編集者となった。本を読み、本を作り、また本を読みの60年。よく飽きもせず本と付き合ってきたものだ。この読書の旅もそろそろ終わりが見えてきた。集中力がなくなり、老眼鏡が必要となり、本も紙から電子出版という時代になってきた。そんな今、自分の読書体験の原点であり、子ども時代に耽溺した少
ケストナー『飛ぶ教室』に寄せて (貼り絵)
吉水法子
『飛ぶ教室(高橋健二訳)』は本棚の奥に、岩波書店ケストナー少年文学全集の一冊として潜んでいました。狩野香苗さんと組んで「大人が読む少年少女世界文学全集」の挿絵を描くにあたり再読し、一番心に残った場面を描きました。
桑山ひろ子
~生まれ育った滋賀県や、現在住んでいる岡山県の伝承を訪ねてみました~
「草津のうばがもち」と言えば、上に白いあんがぽちっとのっている一口サイズの小さいあんころ餅で、現在も滋賀県草津市の土産物として第一に挙げられている。
草津市は、東海道と中仙道の合する交通の要衝であり、東海道53次の52番目の宿場町であった。旅人の街道での楽しみは、疲れた足を休める茶屋での一休みで、餅は腹持ちもよく旅人に歓迎されたというから、草津の「うばがもち」も旅人に人気の餅の一つであっただろう。