「ユーラシア放浪 ⑦」ドイツの思い出

畔上 明 

1976年の初夏、ウィーンからの夜行列車で7時間半、早朝の柔らかな陽射しを浴びて西ドイツ南部バイエルン州のヴュルツブルクに到着しました。

第二次世界大戦でのドイツは、ヒトラー率いるドイツ軍がヨーロッパ内で凄まじい暴力を振るった挙句の果て、戦後の東西冷戦構造の中、東ドイツ(ドイツ民主共和国)と西ドイツ(ドイツ連邦共和国)に分裂、その為戦後30年以上を経てもその爪痕がまざまざと感じられました。

旅立つ前に観たアメリカ映画「スローターハウス5」(1972、カート・ヴォネガット原作、ジョージ・ロイ・ヒル監督)では、ドレスデンの美しい街並みが連合軍による激しい空爆のため徹底的に破壊されていくシーンに打ちのめされました。朝鮮、中国を侵略していった20世紀前半の軍国日本が、その果てに東京大空襲を始めとする各地の空爆、沖縄での惨事、そして広島、長崎に原爆を落とされてしまったという悲惨な歴史に至ったことと重なりさえしました。

幼い頃観た「最後の橋」(1954)は戦争に対する強烈な反省の思いが描かれていることが長く心に残っていました。ボスニア・ヘルツェゴヴィナのモスタールを舞台とするこの映画では、ネレトヴァ川に対峙するドイツ軍とユーゴスラヴィア・バルチザンの狭間で双方に向けて献身的に動き回るドイツ人看護師が橋の上での最期を迎える、そんな姿に戦争の傷ましさ、悲しさが集約され、子供ながらに女優マリア・シェルに思いを馳せたものでした。

ドイツへの思い入れの最初は、満洲で青春時代を過ごした母が引揚げ時に持ち帰った大切な愛読書に、子供の頃から興味を持ったことかもしれません。ゲーテの小説の断片や詩の数々のアンソロジーで、高橋健二訳・編集、昭和12年発行の本には、呉景槐というサイン入りの写真が挟まれ、中華民国30年(昭和21年)の母への誕生日プレゼントであることが記されています。
中国東北地方の大都市である瀋陽は、日本敗戦後もしばらくは奉天と呼ばれていて、帰国の目処が立たぬ在留邦人は中国人からは憎まれソ連兵に対する恐怖心にも怯えていました。そのような日々、日本語を勉強していたという呉さんは、新婚家庭を築き始めた我が父と母と親しくなり、音楽好きという共通の趣味から交流を深めていったのでした。父が何枚ものレコードと蓄音機を持っていることから、特にブラームスを聴きにやってきては、呉さんが自身のヴァイオリン演奏を披露してくれたこと。最終的には戦後1年目に日本へ帰国出来るであろうという見通しが立った時に、呉さんに蓄音機とレコード盤を贈ることとし、そのお礼がゲーテの本だったのでした。ブラームスの楽曲の呉さんの演奏、そしてゲーテの詩集は、今春101歳を迎える母にとっていまだに忘れられない思い出となっているのです。

小学生であった私には難しかったとはいえ、呉さんからの贈り物の「ゲエテ篇」という書物を少しずつ読み始め、その叙情性に心動かされ、特にミニヨンの「君や知る、レモン花咲く国」などは暗唱したものでした。

そしてまた小学生時代、大好きだったユーモア作家エーリッヒ・ケストナー(1899-1974)の少年文学全集を読み漁りました。自伝の中のドレスデンに憧れ、点子ちゃんとアントンやエーミールと仲間たちと共にベルリンの街を動き回ることを空想したものです。ヒトラーが政権を握った戦争前夜のキナ臭い時代に書かれた「飛ぶ教室」では、「大人になっても子供の頃の心を忘れないように、幼い日の深い悲しみをも忘れず、とことん正直であれ」というメッセージを忘れはしないと、ケストナーと指切りをしたことを時折思い返します。

さらに、小学生の時アルベルト・シュヴァイツァーの伝記に心打たれ、その読書感想文を教室内で朗読することとなったとき、担任の先生から「君は医者に向いているかも」と言われたことがありました。それ以来シュヴァイツァー著作集を揃え「生命の畏敬」という言葉を胸に秘め、大学受験で医学部を目指す私に対し父が猛反対するに至るまではクラブ活動では「生物部」に身を入れるなどしてシュヴァイツァーを追い掛ける心づもりをしていました。 シュヴァイツァーの著作を読む傍ら、彼のバッハのオルガン曲集のLPレコードも繰返し聴いたものでした。

ドイツの作曲家ではバッハやベートーヴェンのみならず、「無言歌集」、「夏の夜の夢」、「イタリア交響曲」等のメンデルスゾーン、「子供の情景」、「幻想小曲集」、交響曲「春」や「ライン」等のシューマンにも惹かれていったものです。

そのようなドイツへの思いがようやくドイツ旅行として実現したのでした。

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最初に南ドイツのヴュルツブルクを訪れた理由は、友人から紹介を受けたご夫妻を頼ったことにあります。

中学生の頃よりロシア文学に凝り始め、キリスト教についての知識がなければヨーロッパに対する理解が難しいと感じて、並行して「聖書」を読むようになったのがそもそもでした。高校入学時の同級生・和田道雄さんが牧師の息子であると知り、そのユーモア溢れる人柄に好感を持ち親友となりました。聖書の物語としての面白さは感じるものの、古典として、そして宗教書としての理解の難しさを伝えると、近所にあるプロテスタント日本基督教団の中野桃園教会を紹介してくれました。日曜礼拝の前に高校生会という聖書研究の場が設けられていて三年間は無心に学んでいったものでした。和田さんからは銀座のキリスト教書籍販売店「教文館」も教えてもらい、書店通いが高じて大学時代にはそこでアルバイトさせてもらったりもします。それまで私にとっては知識が余り無かった障害者の施設を見学させてもらったり、ハンセン病療養施設の多磨全生園を訪れる機会も和田さんから与えてもらうなど新しい世界が開かれていく思いでした。時には銀座教会でのバッハ「マタイ受難曲」の演奏会に誘ってもらい、そこで和田家のご両親とも知合うなど親交を深めました。
その後和田道雄さんは東京神学大学で学び、教師生活を続けながら牧師への道へと歩まれましたが、その彼がドイツのヴュルツブルクに暮らす友人、大貫隆さんを私に紹介してくれたのでした。

ヴュルツブルクにて

ヴュルツブルクの街並み(絵はがき)

朝まだ早く7時前の清々しい空気、静まり返った街の中をヴュルツブルク駅から歩いて30分、マイン川近くの建物を3階まで上がり呼鈴を押すと、玄関口に理知的で見るからに温厚そうな、大貫隆さんが出てこられて初対面。妻の裕子さんは午前中ホームヘルパーのアルバイトをしているとのことで、アパートの中に招き入れてくれます。大貫さんは、2年前の秋よりヴュルツブルク大学で「新約聖書学」を研究している、出身は浜松、学究生活に入る前は「日本楽器(ヤマハ)」に勤務したこともあるとのこと、私の母の身内も浜松在住ということで親近感を得ます。和田さんからの連絡が入っていたばかりでなく、私が大貫家の住所を予め家族や友人に知らせていたこともあり十通もの手紙が届いていて、我が身勝手さ、厚かましさに恐縮しながらも、寛大に迎い入れて下さる、その親切さに素直に甘えさせてもらったのでした。

昼に裕子さんが帰宅されるや、冷麦をご馳走して下さいます。スパゲティに慣れてしまった口には、久し振りの本物の日本の味に思わず体と心が震える嬉しさ。それに天麩羅、そして緑茶!食後の風呂と洗濯!ユースホステルではシャワーばかりの生活でしたので、身も心も休まります。

大貫隆さんと裕子さんは正に息の合った、お互いが人を柔らかく包み込むような似た者同士。ご夫妻の会話にはポンポンドイツ語が飛出し、仲睦まじさが衒いなく表れて気持ちがよいほどです。裕子さんもドイツ暮らしが1年以上を越えていることもありその生活に馴染んでいる様子が覗えます。

ヴュルツブルクの街は戦禍ののちの復興に努め、それが分からぬほど見事に中世の街並みが息づいていました。清潔感漂う落着いた街景色、そして緑豊かな景観がそこに生活する人々にゆとりと安らぎをもたらしてくれているようです。

日本とは違い肉を買うにも大きな塊で手に入れなければならず、裕子さんはそれをきちんと処理し素晴らしい手捌きで夕食の用意をして下さるのでした。鶏料理に白いご飯と味噌汁、漬物に海苔、久し振りに二本の箸でのご馳走が日々続いていきます。食後は、山羊の袋(ボックス・ボイテル)という形の瓶のフランケン・ワインを出して頂き、口当たりのよい上等な白ワインに酔いながら、会話も楽しく、「カナスタ」というトランプゲームを教えてもらい、興じるうちに夜も更けてゆくのでした。

マリエンブルク要塞(絵はがき)

半世紀を過ぎた今から思うと、研究論文に集中されてのお忙しいさなか、とんでもない迷惑をかけてしまっていたかと冷汗が出てくるのですが、大貫夫妻の優しさ、温かさ、居心地のよさにすっかり安住してしまい、1週間ほど滞在したのです。到着翌日には、大貫夫妻の案内で、マイン川を渡った先の丘の上の城へと上がります。マリエンブルク要塞の内部は「マイン・フランケン博物館」となっており、ヴュルツブルクの工房での彫刻マイスター、ティルマン・リーメンシュナイダー(1460-1531)の木彫の数々、石や木のピエタの像、ルーカス・クラナッハ(1472-1553)の宗教絵画、城の調度品などが展示されていました。

リーメンシュナイダー「悲しみの聖母」

ルーカス・クラナッハ「アダムとイブ」

イタリアでカメラを盗まれたことを話したこともあり、大貫さんがしばらくカメラを貸して下さることとなり有難いことでした。ご夫妻の道案内でドイツに対する親しみが一気に湧いてきます。ご夫妻の仕草までもが表現力に富んでいて如何にもドイツ人的だな、と思える微笑ましさです。丁度晴れ上がった丘からの眺めは、多くの赤い屋根、その先の葡萄畑が美しく広がっています。ビショップの宮殿であったレジデンツへ向かう途中、アイスクリームと魚のフライとポテトフライをご馳走になりました。バロック建築のレジデンツ内部では一部がギリシャ土器の博物館となっています。赤、黒、茶色に細い線で描かれた大らかな図柄が面白く見飽きることがありません。天井画に見とれるうちレジデンツ裏の宮廷庭園に出ます。ここでは毎年モーツァルト音楽祭が開かれるということでした。色とりどりの薔薇、手入れの良い緑の壁、レジデンツから大貫家の方までは、昔城壁だったところが緑地帯となっていて、公園伝いにマロニエ並木、リンデン並木を歩いて辿り着くことが出来ます。

夕食はポーク・ステーキにキュウリもみ、白米、大根の味噌汁と家庭の味を楽しみ、またもワインに酔いながらご夫妻のスイスでの結婚式、スイス新婚旅行の写真を見せて頂き夜中12時を回ってしまいました。
大貫家に滞在中は、朝晩の食卓を共にする幸せに浸りました。寿司を握って頂いたり、タケノコご飯に茶椀蒸し、自家製コロッケ、デザートに手製の羊かんと、感動の料理でした。そして、日中はお勧めの観光地へと私が出掛けるのを3階の窓から手を振って見送って下さいます。

珍しく戦火を逃れた、淡い赤、青、緑、黄とカラフルなおもちゃの様な家並みが続くバンベルク。シラー広場のホフマンの生家や川の中州に建つ旧市庁舎が印象的でした。


バンベルク

ニュールンベルクでは、中央広場の美わしの泉、時計台のあるフラウエン教会、ペグニッツ川に突き出た500年来の聖養老院などを訪れ、「ロマンティック街道」をバスで巡って、お伽話の様な家並みを城壁の上を一周して見て回ったローテンブルク、ネッカー川沿いの大学町ハイデルベルクへと足を延ばしたのでした。


ニュルンベルク


ローテンブルク

一週間近くも大貫家に滞在したときに、この先周辺国を回るのであれば、バックパッカーとしての背負子は置いて、軽装で旅をしたらよいでしょうと、7月半ばの私の26歳の誕生日を迎える頃迄の数週間をカメラも借りたままで大きな荷物を預かってもらうことになったのです。一旦大貫夫妻の許を離れるに当たっては、サンドイッチと林檎、チョコとクッキーのお弁当まで用意して頂いたのでした。

大貫家の許をあとにしてからというもの、ユーレールパスを駆使して各国の列車を乗り回していました。ドイツ各地を転々としたかと思えば、その先、スイスから白夜の北欧巡り、そして、アンネ・フランクの隠れ家を訪ねにオランダへ、巴里祭にはフランスへと鉄道の旅が続きます。

めまぐるしい駆け足の旅から再びヴュルツブルクへと戻ってきたのが私が26歳を迎えた日でもありました。26日振りに大貫家を訪れた夕刻6時、ご夫妻共に大学に出ていらして隣人宅が鍵を預かっていますとのこと、戸口には置手紙が貼られて、中に入ってお待ち下さいとあります。日本の両親からの手紙と小包が置いてあり、開いてみると、イタリアでの盗難を案じてカメラが送られてきたのでした。そして大貫家へのお礼として錦松梅やらかりんとう等の土産品も同封されていました。

間もなく大貫隆さんと裕子さんが帰宅、黒パンにハム、燻製肉にビーツ、モーゼルワインと、ドイツ風の料理で誕生日を祝ってくれたのでした。さらに、日本の夏を思い起こさせる麦茶や、スイカのデザートといった7月後半の暑さに向けた心尽くしに、私は感謝するばかりでした。
大貫家での再度の滞在は瞬く間に5日間もの甘えとなってしまいました。その間日本への小包を送るにも大貫隆さんが段ボールと紐を用意して器用に梱包して下さった上、一緒に郵便局まで行き通訳して下さったのでした。
更には4ヶ月近く伸び放題であったライオンの様な髪の毛を、先ず隆さんが割烹着を前後反対に身につけた姿で首筋が涼しくなるまでさっぱりと刈り込んで下さり、裕子さんが職人顔負けの鋏遣いでの仕上げ、そしてシャワーをして下さり、その後は髪を乾かすために街を一回り散歩したものでした。

酢豚、鱒の塩焼き、そぼろご飯などの和食から、チーズやミートソース、キュウリ、ジャムなどをオムレツの皮のようなもので巻いて食べるプファンクーヒェン、キノコのコンソメ、バイエルンのカツレツであるシュニッツェルなど工夫を凝らした料理をご馳走して下さる裕子さん、食後には「ゲヌーク?(充分ですか)」とドイツ語で声を掛けて下さったことも心に残ります。

日曜日にはキリアーニ・フォルクフェストへと案内してもらいました。7世紀にヴュルツブルクで最初の司教となった聖キリアヌスを祝うお祭りです。マイン川の向こうにある移動遊園地の中に観覧車、メリーゴーランド、ゴーカート、ジェットコースター、ポニー乗り場と大規模な娯楽設備が繰り広げられ、ビール園もあります。子供にかえって大貫隆さんと宇宙船に乗れば、回転軸が垂直近くまで傾き、真っ逆様になるかと思うほどでしたが遠心力で落ちはしません。足もとがふらつきながら即席遊園地をあとにします。広場から聖マリア教会、その裏手に広がる森林公園を散策。麦が刈られたあとの畑を横切ると、羊の群れと二匹の犬を連れた羊飼いのおじさん、白馬にまたがる少女と出会いました。ドイツは工業大国という思い込みのイメージばかりが強くあったのですが、歩いて回れるくらいの町であれば戦争復興後も中世の面影が見事に保存され、その周辺の至るところに見られる美しい田園風景に特色があると感じました。その典型をヴュルツブルクで見付けたと思いました。

1945年から2008年までの間ヴュルツブルクには米軍駐屯地がありました。当時その米軍基地にある劇場でドイツ人に嫁いだ小島さんという方が日本映画上映会を開催しているとのこと、大貫夫妻と出掛けました。熊井啓監督「朝焼けの詩」(1973)にドイツ語の字幕が付いていて観客の大半はドイツ人です。仲代達矢が自然破壊に抵抗する現代のサムライとでもいった激しい役を演じています。小島さんはこれまで「私が棄てた女」(1969)「影の車」(1970)「やさしいにっぽん人」(1971)「忍ぶ川」(1972)を上映してきたとのことでした。

ヴュルツブルク最後の晩はちょうど一年に一度花火が打ち上げられる日、マイン川の橋上で大貫夫妻と共に夜十時からの夜空の彩りを楽しみました。葡萄畑から次々に打ち上げられる鮮やかな青、赤、黄、緑の光、その光が余韻を残しながら散っていきます。夜空の瞬きを目に留め、帰宅後はビールを飲み、連夜興じたカードゲーム「カナスタ」もいよいよ最後となりました。

大貫夫妻とお別れの際に、甘く煮たカツとおにぎりのお弁当を頂戴しました。そして、ご夫妻はヴュルツブルクの思い出にと一枚の絵を差し出されました。アルテ・マイン橋とその欄干の聖キリアヌス像、その背後の丘の上の城、プレゼントして下さるという絵が荷物にならぬ様にと日本の我が家に送っておきますとのお心遣い。
半世紀を経た今も中野の実家の居間にその絵は飾られ、母と共にその絵を目にする毎にドイツ、そして大貫ご夫妻の思い出を語ることが出来るのです。

99歳を迎えたときの母とヴュルツブルクの絵

大貫隆さんは、その後1979年にミュンヘン大学での博士号を取得され、それ以降、東京女子大学、東京大学などで教鞭をとられたのでした。2009年東京大学大学院を定年退職されてからは自由学園最高学部長を歴任されます。出版された著作、翻訳は膨大なもの。「神の国とエゴイズム イエスの笑いと自然観」(1993教文館)、「隙間だらけの聖書 愛と想像力のことば」(1993教文館)、「グノーシスの神話」(1999岩波書店)、「イエスという経験」(2003岩波書店)、「聖書の読み方」(2010岩波新書)などを私は拝読するものの、キリスト教の理解を深めたいと思いながらも信仰への道に至らなかった私にとっては、隆さんは雲の上の存在となってしまいました。

そして大貫裕子さんは地元での活動を大切にされ、食文化への慈しみ、ご家族への愛情、日々の生活の細やかな配慮が現在にも見てとれる方でいらっしゃるのですが、現在の私とご夫妻との交流は年一回の年賀状だけとなってしまっているのでした。

しかし、一介の旅烏である私に和田道雄夫妻との繋がりということで、貴重な時間を割いて並々ならぬお世話のして下さった大貫ご夫妻には、半世紀を経ても頭が下がるばかりです。そして、ドイツという魅力的な国についての窓口として、大貫ご夫妻という最良の思い出が常に大きな存在であり続けているのです。

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