みみずのたわごと 

濱口 十四郎

子供の頃の私にとっては、水屋の上に置いてあるラジオがなによりの娯楽だった。遊び疲れて帰ってくると流行り歌がながれていて、夕飯の支度をしながら母がそれに合わせて、素っ頓狂な声を張り上げている。私は逃げるように戸外の風呂場に飛び込んで、『母のブギウギ』をやりすごす。そして囲炉裏を囲んでの食事になると、ラジオから先ほどまでの流行り歌を諭すように「トクトミロカ サク『ミミズノ タワゴト』・・・」と、落ち着いた声(いま思うと徳川夢声か・・・)が聞こえて来た。

ミミズと聞いた私は、はしゃぐ妹を抱き込んで静かにさせて耳をすませた。その頃、私は釣りに夢中で、ミミズは何よりの餌だった。川魚釣りにはシマミミズ、鰻釣りにはフトミミズ。ミミズは掘り出す場所によって色合いが違った。シマミミズはピンク色に、フトミミズは濃紺に照ってなければ極端に食いが悪かった。子供たちはそれぞれがミミズの堀場をもっていた。私は時々、母に米のとぎ汁をもらって内緒の塒に撒いた。

父は「トクトミロカ サク『ミミズノタワゴト』・・・」に反応した私に、傍らの新聞紙に筆で徳富蘆花と書いて見せて、「明治の人たちの紅涙をしぼった『不如帰』の作者」だと話した。透かさず母は声色をつかって「あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう!生きたいわ!千年も万年も!」と父の顔を覗き込んだ。父は持っていた新聞で母の顔を包み込んだ。

『みみずのたわごと』は大正2年(1913)当時の、武蔵野での半農生活の体験や自然の情趣などをスケッチしたものだったが、何故か子供の私が心待ちする番組になった。後年、その土佐を離れて、琵琶湖畔の山の上に居を構えてすぐに、私は減反の田圃を150坪ほど借りて畑を始めた。多分子供時分に聴いた『みみずのたわごと』の趣がそうさせたのだと思う。家庭菜園にしては少し広すぎるが、遊び場としては格好の広さで、もう30数年になるが、私は野菜作りよりもミミズ育てを愉しんでいる。
先日ミミズについてもっと知りたくて図書館に出向いたが、『だんごむし』や『かたつむり』などの単冊はあるのに、『ミミズ』の本はなかった。相談すると司書のお嬢さんがエイミィ・スチュワート著「ミミズの話」という大著を探してくれた。

その本で、あの進化論のダーウィンが、若いころからミミズの生態についても研究していたことを知って私は嬉しくなった。
ダーウィンとミミズの物語の始まりは、彼がまだ20代だった1837年にまでさかのぼる。ビーグル号という英国の帆船での世界周航の旅から帰還した直後のことである。
初めのうちは、猛烈な勢いでメモや航海日誌の整理に取り組んでいたが、まもなく健康をひどく害してしまう。ダーウィンは田舎に住むおじを訪ねた。おじの家に着くとすぐに、おじはダーウィンを牧草地に連れていき、何年も前に地面にまかれた炭殻やレンガのかけらが、今では芝の7~8センチの地中に埋もれているところを見せた。ミミズが糞を積み上げたせいで、長年のうちに、ここまで深く埋没したのだとおじは言う。こんなちっぽけな動物にそんなことができるとは、ダーウィンは強い感銘を受けた。おじの家を訪ねて以来、ミミズこそが肥沃な表層土を形成するのだと信じるようになる。

その年、ダーウィンはロンドンの地質学教会で「肥沃土の形成について」と題する論文を発表している。論文のなかでダーウインは「ミミズが消化管内に取り込んで糞として排出する土の量について言うと、ローマ遺跡が地中で保存され、考古学者たちの目に触れることができたのも、勤勉なミミズたちのおかげである」と述べている。
私は、その人類にとって重要な生きものミミズに敬意を表し、『みみずのたわごと』を表題として、終期高齢者の雑感をこれからこのサイトに書き残したいと考えている。「大きな木の家」の病葉にならぬと良いのだが・・・

 

参考資料・「ミミズの話」
著者 エイミィ・ステュワート、訳 今西康子
発行所 飛鳥新社

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