命がけのホスピタリティ
青木恵理子
2023年に新型コロナウイルス流行による海外渡航の制限がなくなり、夫と私は再びフローレス島の「家族」たちのもとを訪れるようになった。私たちが取得するのは、観光や親せき訪問のためのヴィザ(滞在許可)。滞在できるのは最長30日間。これを最大限生かして、私たちは、2023年は10月初めから11月初めまで、そして今年2024年は7月末から8月末まで、その大部分の期間をフローレス島の家族とともに暮らした。そしていつものように、フローレスへの行きかえりには、国際観光地バリ島で2,3日のリゾート気分を味わった。
2024年8月23日、帰国間際のお昼どき、夫と私は、滞在していたバリのコテージ風ホテルに現地の友人カリッサを迎えて、彼女が買ってきてくれたバビ・グリンBabi gulingを堪能していた。バビは「豚」、gulingは「グルグル回す」、という意味だ。バビ・グリンは、小ぶりの豚を一匹、火の上で気長にグルグル回して丸焼きにした、バリのローカル・フードだ。料理の基本は、北京ダックと同じ。パリパリの皮とやわらかくローストされたお肉を、バリのサンバル(辛み調味料)とともに食べる。私たち三人は、コテージ・ホテルのベランダで、バビ・グリンとパサッとしたご飯とサンバルを右手指でほど良く混ぜて口に放り込みながら、おしゃべりを楽しんだ。専用庭の熱帯の花をそよがせて風が吹き抜けた。
カリッサは、インドネシア中部ジャワの小さな町に生まれ育ち、今はバリ島で暮らしている。まったく面識のなかった彼女から突然のメールが届いたのは、今年の1月末のことだった。
「私は、オーストリアのメルボルン大学でダグラス先生の下で文化人類学を学び、オランダのライデン大学の大学院で修士号をとりました。10年ほど前に2年間日本に滞在して日本語を学び、そのときから日本にとても興味をもつようになりました。子どもが生まれてから、研究から遠ざかっていましたが、研究の再開をいつでも考えてきました。是非日本でフィールドワークをして博士課程の研究をしたいと、ダグラス先生に相談したところ、かつてあなたが、オーストラリア国立大学でダグラス先生の同僚であったと知りました。来月の初めに日本を訪れます。もしよろしければ、そのとき、お会いできませんでしょうか。」
ダグラスとはもう30年以上会っていなかったし、メールのやり取りさえしていなかった。けれども、ダグラスと聞いて私は、できるだけカリッサの力になれればと思った。なぜなら、今から45年前に忘れられない経験をしていたからだ。
時計を1979年に戻そう。
1945年に独立を宣言したインドネシアは、第二次世界大戦中日本に3年間占領されたが、それ以前はオランダの植民地だった。フローレス島を含め、東部インドネシアの文化については、宣教師やオランダ植民地政府の役人の報告書を基にした、オランダ人による研究があった。しかし、東部インドネシアを対象とした、長期のフィールドワークを必須とする文化人類学の研究は、1960年代の半ば以降始まったばかりだった。その先鞭をつけたのがオーストラリア国立大学のジム先生。ダグラスは彼の学生で、フローレス島に関してはダグラスがパイオニアだった。
1979年、初めて私たちがフローレス島に旅立つ前に、夫はジム先生に手紙を書いた。先生のお返事では、私たちがフローレス島に降り立つ8月頃、ダグラスが〈森の大地Tana Ai〉と呼ばれる地域でフィールドワークをしているとのことだった。〈森の大地〉は私たちが目指すエンデ県の東隣のシッカ県にあるという。だが当時は地図もなく、どこをどう辿っていけば行きつけるのかも分からない。ダグラスと連絡をとろうにも、当時は電子メール誕生以前、フローレス島の山間地では、電話はおろか手紙もままならなかった。それでも、「私たち自身のフィールドワークを始める前に、ダグラスに会いに〈森の大地〉に行こう」と私たちが決めたのは、同じ志をもって異郷の地フローレスにくらしているまだ見ぬアメリカ人ダグラスを、心強い兄のように感じていたからだと思う。
私たちはまず、シッカ県の県都マウメレに降り立ち、情報収集をした。第二次世界大戦中に駐留していた日本軍兵士に会ったことのある人は、当時のフローレス島にもかなりの数いたが、兵士でもなんでもない日本人の若者を見るのは、誰にとっても初めての経験だった。こころもとなげに歩いている私たちに興味をもって、「ご飯でも食べていかないか」と声をかけてくれる人が少なからずいた。マウメレの華人のリムさんもそんな人の一人だった。手広く商売をしていたリムさんは、そのあたりではかなりの情報通で、美味しい中華料理を私たちに振舞いながら、ダグラスらしき人についての情報も交え様々なことを教えてくれた。リムさんの話すことはなにもかもが新鮮だった。なかでも、「私はねぇ、エンデに住んでいたんだけど、理不尽な検事を撲殺して、マウメレに逃げて来たんだ」と力強く語ったのには、驚嘆した。エンデは、私たちの目的地のあるエンデ県、つまりシッカ県の西隣県の県都だ。県都マウメレと県都エンデの間は、距離にすれば百数十キロメートル。フローレスでは当時、距離の持つ意味は絶大だった。
ダグラスに関する曖昧な情報を頭に入れ、自動車でいける地点タリブラまでたどり着いた。どうやら、そこから、山道を徒歩で登っていくと〈森の大地〉に行きつくらしかった。タリブラには小学校があり、そこの先生が初めて会う日本人の私たちにとてもよくしてくれた。冬瓜のような野菜と鹿の干し肉のスープの昼食を振舞いつつ、〈森の大地〉までの旅の段取りをしてくれた。〈森の大地〉には小学校がないので、そこの子どもたちは、タリブラの寄宿舎に暮らして小学校教育を受けていた。先生は、〈森の大地〉の男の子二人を私たちの道案内に付けてくれた。とても身軽な、しっかりした子たちだった。心強い!昼食を済ませ、段取りができると、午後2時になっていた。
「〈森の大地〉まで何時間くらいかかりますか」と私たち。
「2時間くらいかな」と先生。
「はい」と子どもたち。
「2時間ならば、4時に〈森の大地〉到着。1時間くらいダグラスとお話しして、そのまま帰ってくることもできるだろうし、泊めてもらえるなら泊まってこよう」、と私たちは算段した。
その時点で、先生自身は〈森の大地〉まで行ったことがないこと、そして子どもたちには時間を測るという習慣がないことを、私たちは知らなかったのだ!
私たちは、心強い男の子たちに先導されて意気揚々と〈森の大地〉へと出発した。山道は涼しく気持ちよかった。せせらぎを渡り、畑の囲いに備え付けられた竹の梯子をいくつも上り下りした。既に二時間が経過していた。
「もうすぐかな」と子どもたちに尋ねる。
「はい」と礼儀正しい子どもたち。
やがて、空腹になってきたので、携帯していたバナナとクラッカーを子どもたちと一緒に食べた。「もうすぐかな」「はい」という会話が、何回も繰り返された。食料はなくなった。日も暮れた。心もとない懐中電灯の灯りを頼りに、さらに山道を進んだ。おどおどとした私の足取りとは対照的な、子どもたちの軽快な身の動きが伝わってくる。子どもたちは確かに夜目が効くのだ。そんなことに感動したのもつかの間、疲労困憊した身体を自ら叱咤激励して、なんとか子どもたちについていった。それ以外選択肢がなかったのだ。
そんな状態が何時間も続いたような気がしていると、子どもたちが突然言った。
「ここですよ」
夜8時になっていた。目をあげると、家影がいくつか見えた。人里だ!‥‥が、家影は暗く静まり返っている。村人はもう寝てしまったのだろうか。当時フローレスでは県都にしか電気がなかったが、それにしても暗かった。家影のなかに、少しだけ明るい灯りが漏れている家があり、それが、ダグラスの家だった。
生き延びた!と思いながら、私たちは扉をたたいた。簡単な自己紹介をしただけで、ダグラス夫妻は私たちを温かく迎え入れ、食事を振舞ってくれた。子どもたちは先生から申し渡された使命を果たすと、それぞれの家に帰ったらしい。らしい、というのは、あまりに疲労困憊していてよく覚えていないのだ。やがて私たちは、村の教会に付属する小部屋の木の寝台に身を横たえることができて、ホッとした。
私たちにとってダグラス夫妻との初めての出会いはこのようなものであったが、ダグラス夫妻にとっては、かなり違っていたようだ。〈森の大地〉の彼らのもとに、見ず知らずの外来者が夜8時過ぎにやってくるなんて、まったく予期しないことだった。おりしもその日、村の長老が亡くなり、村人たちは通常の灯りを灯さず、大きな声も出さずにその夜を過ごしていた。そんな夜更けに、扉をたたく音が響いた。開けてみると、顔面蒼白の見知らぬ人たちが喘ぎながら立っていたのだ。ダグラスの妻のマリアンは、「亡霊かと思ったわ」と次の日に笑いながら言っていたが、半分本気で怖かったのだと思う。
ダグラス夫妻はあと数日で村を引き上げてオーストラリアに帰ろうと、そのための支度を始めていた。フローレスの山間部では食物の生産が十分でないから、村人たちの食料消費や流通に悪影響を与えないよう、フィールドワーカーは自分たちの食物をすべて担いで運びこまなくてはならない、ダグラスがそう助言するのを聞いた。担いで運ぶ力は限られているから、運び込む食料はかつかつの量だ。つまり、私たちが訪問した時、彼らの手には、お二人が残りの日々を過ごせる量の食料しか残していなかったのだと思う。そこに、腹ペコ二人組が転がり込んできたのだから、彼らにとっては一大事だったに違いない。腹ペコ二人組、特に私は、情けないことに筋肉痛で体が思うように動かず、次の日に帰るつもりが、結局三泊も厄介になってしまった。ダグラス夫妻は、そんな私たちに終始にこやかに話しかけてくれた。すべての話が面白く、フローレスの人々の生活への興味をかきたて、フィールドワークの実践的な知恵を沢山授けてくれた。飢餓を覚悟の彼らのホスピタリティは、まさに命がけであった。
時計を今年2024年に戻そう。
カリッサからダグラスの名前を聞いたとき、私は、この命がけのホスピタリティを思い出したのだ。それに比べたら、私のできることはまったくちっぽけだけれど、こうして、何かが繋がっていくのがとても嬉しい。2月にカリッサが7歳の愛息子と日本にやって来た時、たまたま日本に滞在中だった友人、現代日本社会の研究をしているイギリス人研究者ジョンとともに彼らを迎えて、食事をしながら、研究のアイディアや日本でのフィールドワークについて話し合った。
そして8月のバリ、歳をとってもやっぱり腹ペコになりがちな私たちを、カリッサはバビ・グリンをもって訪ねてきてくれた。やがて彼女の研究が軌道にのり、「大きな木の家」に集うように、さまざまな人たちと繋がっていくことを心から願う。