ともに時を刻む
青木恵理子
1979年八月末、文化人類学研究者の卵二人――つれあいと私――は、インドネシア南東部にあるフローレス島のズパドリ村に暮らし始めた。八月末と言えば、乾季も中盤を過ぎた頃だった。
当時、ズパドリ村の生業は焼畑耕作だった。焼畑耕作は、その名のとおり、森を燃やしてその灰を肥料にする耕作法だ。森の木の伐採、火入れ、各作物の種蒔きと収穫の時期は、季節の運行――乾季と雨季の移り変わり――に調和させることによってはじめて可能になった。日本の場合もそうであるように、季節が移り変わる時期、寒暖、日照や降雨の多少は、毎年判で押したようには行かない。火炎樹などの開花を観察して、雨季の到来を予知した。様々なことを見通す能力を持つアタ・マズィと呼ばれる人たちが招聘されて、種蒔きする日程や拓くべき畑の方向を決めることもあった。
その頃のズパドリ村の人々の暮らしは、カレンダーとも時計時間ともほぼ無縁だった。一年のなかの時の推移は星々の位置によって、ひと月のなかの時の推移は月の満ち欠けによって、一日なかの時間の推移は太陽の位置によって判断していた。日本語と同じように、年を表す言葉「イワ」は特定の天体を表さないが、ひと月を表す言葉「ヴザ」と一日を表す語「ズラ」は、それぞれ月と太陽という天体を表す語でもある。
フローレス島はほぼ赤道直下にあるため、日の出と日没の時刻は一年中変わらない。太陽の高さと標準時計時間との対応関係は一年中同じだ。例えば、ズパドリの或る人が「私は、昨日『太陽がこんな時に』畑の柵造りをしてたんだ」いう場合、「太陽がこんな時に」と言いながら、柵作りをしていたときに太陽が位置していた天空の方向を指した。それに対して「もっと正確に太陽の位置を示して」とか「それはいったい何時(なんじ)なんだ」と突っ込む人はいなかった。
日本語と同じように、一日の時間帯を示す語彙もある。夜間はコンベ、日中はオゾ・ズラ、夜明けはウェッエ・シア、朝はポア、夕方はズラ・ラゼ(日が西に傾く頃)等々。日本語でも「逢魔が時」といわれる、昼間から夜に移行する時間帯はズパドリ村界隈でも、危険が潜むと考えられ、ングルンガラやニア・サザ(顔を見間違える)という特別な名称をもつ。真夜中は、オゾ・コンベというほかに、マヌ・カッコ(雄鶏が鳴く)を真夜中の時間帯を示す言葉としている。ズパドリ村界隈の村々では、各世帯で鶏を飼っている。真夜中に一回、村中の雄鶏たちが鳴きかわす。やがて未明の時間帯にもう一回鳴きかわす。
日本とは違い、一月、二月などと、各月(ヴザ)に数字を当てて数えたり、英語や和風月名のように各月に特定の名前――JanuaryやFebruary、睦月や如月――を与えたりすることはなかった。そのことは、ヴザが、一年の流れのなかで繰り返される特定の時期をざっくりと語る言葉としても使われたこととも関係しているだろう。
乾季は「太陽のヴザ」、雨季は「雨のヴザ」。焼き畑仕事の有無によって区別する場合もある。焼き畑仕事をする季節は「仕事のヴザ」、焼き畑仕事のない季節は「悠々と座すヴザ」。「仕事の季節」は、乾季の後半から始まる。八月から九月に森の木を伐り、乾燥させ、九月から十月に火入れをし、十一月から十二月あたりの雨季の到来を待って、米、トウモロコシ、稗、粟、豆、カボチャ、キュウリなどの種を撒いた。乾季には、キャッサバの葉やパパイヤの葉など、雨がなくとも持ちこたえている作物の葉以外の野菜が食事を彩ることはほぼなかったが、雨季になると、豆やカボチャのみずみずしい若葉、インゲン、カボチャ、キュウリ等様々な野菜、筍や茸など森のめぐみが溢れた。その一方で、雨季に入りトウモロコシが実るまでの時期は、米はほぼ底を突き、乾燥保存しているトウモロコシやキャッサバや豆で主食をやりくりしながら空腹を抱えて過ごす、「空腹の季節」とも言われた。トウモロコシが実り始めると「空腹の季節」はようやく少し遠ざかり、四月頃に稲を収穫し、やがて「満腹の季節」を迎え、出来立ての新米をお腹いっぱいになるまで堪能した。稲の収穫をもって焼き畑の一サイクルは終了となり、「仕事の季節」から「悠々と座す季節」へと移っていく。
「仕事の季節」が、森や畑、そして森の精霊との交流の季節であるのに対し、「悠々と座す季節」は、結婚のための姻戚間の贈り物のやり取りを大々的に行う、人々の交流の季節であり、そのような交流が滞りなく行われるよう護ってくれる祖霊との交流の季節である。
「悠々と座す」という表現とは裏腹に、ズパドリ村近辺の人々は大忙しであった。嫁をもらう家族は、嫁となる女性の親族への贈り物――象牙、金製品、家畜など――を同じ村の人々や親族の協力のもとに準備する。一方、嫁となる女性の家族もまた、返礼の贈り物――絣織布、米、茣蓙、枕、バナナ、揚げ菓子など――をやはり村人や親族の協力を得て準備する。贈り物を携えて大挙してやってくる婿側の人々を、嫁側の人々は大人数で迎え、宴会が催された。嫁側の人々が嫁となる女性を返礼の贈り物とともに、婿の世帯に送り届ける際にも、贈り物の準備の過程でも、人が集まるたびに宴会が催され、そのたびに家畜が屠られ、ご飯と肉が振舞われた。それは蕩尽という名にふさわしく、残れば捨てられるほどの大盤振る舞いであった。宴会で振舞われる米も地縁血縁の協力によって集められているため、空腹を耐え忍んで収穫された米は、地域全体で2、3ヶ月の間に希少となった。
私たちが暮らし始めた八月末は、「悠々と座す季節」の宴会の連鎖は未だ続いていたが、日常生活では、キャッサバやトウモロコシで補いながら、多少の空腹とも付き合い始める季節であった。私たちが町で購入し、ズパドリ村の居候先に運び込んだ米も、仲よくみんなで食べ、あっという間になくなった。そのような状態のなかでも、私たち文化人類学研究者の卵は、贈り物を持ってゆく人々に同行して、十数キロの山道を往復することもあった。
ズパドリ村に暮らすようになって2ヶ月が経とうとするころ、信じられないような寒気と震えが私を襲った。全身の痛みも尋常ではなかった。口の中が異様に苦く感じられた。持ち込んでいたわずかな書物のうちの一冊、『熱帯の疾病』という本をむさぼるように読んだ。私の症状をその本の記述に照合させると、マラリアに罹患したことが分かった。「そのような症状が悪化すると死に至る」という記述に驚愕した。大人になってから初めて罹患した場合は劇症化重篤化する、とも書かれていた。マラリア予防薬も毎週飲んでいたのになぜ、と自問した。一日目は、わずかながら食物を飲み下すことができた。二日目は、水を飲み下すのがやっとだった。身体全体が自分のものとは思えないような、それまで経験したことのない違和感と痛みが広がっていた。三日目になると、水も喉を通らなくなった。
当時ズパドリでは、マラリアはごくありふれた病気であった。大抵の場合は、「三日熱マラリア」の類で、寒気を伴う発熱に襲われてから三日もすれば、症状はなくなった。体調が崩れたようなときに慢性的にぶり返したが、それでも、三日も経てば快癒したように見えるマラリアをほとんどの人たちが経験していたので、ドンダさんとパマさん(居候先の「父母」)も、私の病はいわば風邪程度のもので、休養すれば回復すると判断していたようだ。
食物はおろか水も摂取できなくなっていた私は、ドンダさんたちの判断を振り切って、つれあいを促し、残された力を振り絞って四キロメートルの山道を歩いて海岸の自動車道までたどり着き、いつ来るかわからない乗り合いバスを道端で待った。どれくらい待ったのだろう。あまりの苦しさにとても長い時間待ったように感じられたが、ともかくも、つれあいと共に乗り合いバスに乗り込み、最寄りの町エンデに到着した。エンデは小さな町なので、乗り合いバスは目的の家まで乗客を運ぶことが稀ではなかったが、その時の運転手は、バスターミナルで乗客を降ろし、私たちの懇願にもかかわらず、家まで送り届けてくれることはなかった。
マラリア原虫は血液の集まる臓器に集まりその機能を麻痺させる。私の場合も例外でなく、おそらく肝臓もやられたらしく、町の知人モンテイロさんの家に辿りついたころには、黄疸症状で全身真っ黄色になっていた。
「病院に連れて行っていただけますでしょうか」と弱々しく私が依頼すると、モンテイロさん夫妻は、泰然と「病院に行くと悪化するので、ここで静養しなさい。」と言った。一瞬耳を疑ったが、それから2ヶ月間、モンテイロさん一族のご厚意に甘えてお世話になり、町の生活を楽しみながら、十分に回復することができた。そして、私の帰りを待ち望んでいたドンダさんとパマさん、ズパドリ村の人たちのもとに戻り、フィールドワークを再開した。不思議なことに、栄養条件が悪くマラリアを発症しやすいズパドリ村に帰ることに何の躊躇もなかった。
ズパドリ界隈の社会は、首長もいなければ階層もない。二十世紀の初頭にオランダ植民地政府が軍事遠征をするまでは、国家のなかに組み込まれた経験もなかった。第二次世界大戦中の日本海軍による統治、1960年代以降のインドネシア行政の開始があり、国家の一部となってきたが、自然、国家、グローバルな状況に柔軟に対応しながら、現在に至るまで自らの生活を自らの知恵と手で形作ってきた。
わたしたちがそこに長く暮らした1979年から1984年頃は、人口の自然増により、焼き畑耕作のできる森林が量質ともに貧弱になり、農作物の収穫が十分ではなくなっていた。村人たちは、「空腹の季節」にともに飢え、「満腹の季節」に新米をともに堪能した。新米堪能の時期になぜか死者が増えた。ズパドリ村地域では、死者があると、太い竹筒に石油を入れ火をつけて爆発音(ボー・ズンギ・タナ)を響かせ、近隣の人々に知らせる。その音を他の時期よりも頻繁に聞いた。その時期に死者が多いことは、村人たちも気づいていて、なかには、「新米でお腹いっぱいになって満ち足りて死ぬんだ」という人もいた。飢餓状態が続いた後に急に栄養補給すると、心不全などが起き、死に至ることがある。これを医学的にはリフィーディング症候群というらしい。餓死者が出るほど過酷ではなかったが、ズパドリ村地域の人びとは毎年かなりの飢えを経験していた。誰一人空腹に怒りをもたず、運命を呪わず、粛々と耐えていたのは、野菜やトウモロコシ、そして待ち望んでいる米の収穫という希望があったからだろう。それに加えて、誰一人例外なく、ともに空腹を耐え忍んでいたことも重要だっただろう。
このようにして、ズパドリ村地域の人びとは、天体の運行、森の木々や花々の栄枯、作物の芽生えと収穫、鶏の鳴き声、明暗の移ろいと共振しながら、森や稲の精霊たちに働きかけ、労働し、長い空腹に耐え、収穫に喜び、新米の幸福を死ぬほど堪能し、祖霊に働きかけながら人々と贈与と宴会を通じて交流することによってともに時を刻んだ。私がかなり重篤な病を発症しても、ごく当たり前のように村の生活に戻っていったのは、やや変則的ではあったが、ズパドリの人びととともに時を刻んだからかもしれない。