もうひとつの故郷フローレス 壱の巻

八代亜紀哀悼
青木恵理子

1979年8月、わたしは、フローレス島にはじめて降り立った。フローレスは、インドネシア南東部にある、四国より少し小さい島である。同行者は、1978年に学生結婚した夫。ともに文化人類学研究者の卵。すくなくとも何かの卵だった。双方の両親の意向に便乗して結婚式と披露宴はそれなりに豪華だったが、新婚旅行はなし。アルバイトと奨学金暮らしという経済的理由も多少あるが、「愛のくらしに、新婚旅行は必要ないわ」という、理想に燃えた――鼻息荒い――「卵」特有の理由もあった。1979年から約2年に渡るフローレス島でのフィールドワークは、文化人類学研究者をめざす卵たちにふさわしい、ながーい新婚旅行でもあった。

フローレスの北海岸 「白海岸」と呼ばれるところ

最近では、フィールドワークということばをさまざまな領域や場面で耳にするようになった。現地調査、隣地調査と訳されることもある。現地の人たちに混じりながら暮らすことが主となる文化人類学のフィールドワークは、概ね2年とされる。なぜ2年か。1年で季節が一周する。最初の年は、言葉も知識も不十分で、現地の人たちのくらしの概要が分からないなか、あたふたと過ぎる。2年目にして初めて、ある程度適切にくらしに立ち混じることができるからだ。

現在でも、フローレス島について、日本の日々の暮らしのなかで聞くことはほとんどないだろう。
冒険的な旅行が好きな人なら、島の中央に、色の異なる三つのカルデラ湖を頂くケリムトゥという山があることを知っているかもしれない。
あるいは、世界最大のトカゲ、コモド大トカゲ――英語ではKomodo Dragonというカッコいい名前がついている――を見るために必ず立ち寄る町が、フローレス島の北西岸のラブハンバジョであることを知っているかもしれない。
2023年に、ラブハンバジョは、アセアン首脳会議の会場となったため少し知名度が上がった。現在でも、フローレスについての知識はその程度にとどまだろう。

 

1979年当時、インターネットの姿かたちもなく、フローレスがどのようなところかまったくといっていいほどわからなかった。わたしが知っていたのは、インドネシアを植民地としていたオランダの学者による「フローレス島は、社会構造とくにその親族構造、および世界観が面白い」という1930年代の研究だけだった。インドネシア出発直前に得た唯一のタイムリーな情報は、新聞の、見落としてしまいそうな片隅にあった「現在、フローレス島に飢餓ひろがる」というものだった。

フローレスに関する無知は、日本人に限られたものではなかった。インドネシアという同じ国の人であっても、フローレスという名前もきいたことがないことはまれではなかった。わたしたちは、フローレスに向かう前に、首都ジャカルタで2カ月ほど暮らしたが、ジャカルタっ子の友人たちは、研究者であっても、だれもフローレスに行ったことがなく、「ほんとにそんなところに行くのか」と驚嘆し、心配した。
インドネシアは広域に広がる多くの島々からなる。ジャカルタのあるジャワ島や世界的観光地であるバリ島などインドネシア西部の人々と、フローレスの人たちは風貌も異なる。大雑把にインドネシア西部の人と比べると、フローレスなど東部の人々は、膚はより褐色で、彫りは深く、髪は縮れ、体躯頑強。西部の人にとっての異人イメージを醸してきた。

インドネシアは言語的に多様だ。島が異なれば、あるいは同じ島内でも地域が異なれば、言葉が通じない。何世紀にもわたって、母語の通じない人々を繋いでいたリンガ・フランカ――異言語集団をつなぐ交易語――は、マレー語であった。インドネシア独立後、マレー語を基盤に、サンスクリット、アラビア語、ジャワ語などの語彙を合わせて、国家の公用語としてインドネシア語が制定され、わたしが入国した頃には、インドネシア語は国の言葉として成熟し、それさえ知っていれば、インドネシアどこに行っても、あまり困ることがなかった。
ところがなんと、わたしは、インドネシアに入国前に東京のインドネシア大使館主催の3週間ののんびりしたインドネシア語講座に出席した以外、インドネシア語教育を受けていなかった。フローレスの諸言語といえば、教科書もなく、情報皆無であった。それにも関わらず、なんの心配を懐くことなく意気揚々とフローレスまでの旅を終え、村での生活に没頭できたのは、「卵」の鼻息と出会った人々の包容力とホスピタリティーのおかげだろう。

南海岸 フローレスは火山島 遠方の山からは少し煙が上がっている
ウォロソコ村の朝

村で始めた生活は、毎日が新たな発見で、興奮のうちに過ぎた。それでも、鼻息荒い「卵」も日本が懐かしくなることがあった。電気、水道、ガス、電話、車もない村には、郵便も届かなかった。日本と「卵」をつなぐ糸は、日本から持ってきた受信のおぼつかない短波ラジオだけであった。

村の小学校の奥さんと語らう「卵」
子宝

ある日のこと、世話になっていた村人の家に、たくさんの人が集まって、トランプに打ち興じていた。わたしといえば、その楽しいざわめきのなかで、短波ラジオに齧りついて、途切れながら聞こえてくる日本の歌謡曲に聞き入っていた。その家の主人―-わたしたちの「お父さん」――が、そんなわたしの姿に興味を懐き、「何をしているの」と尋ねた。
その時私が聞いていたのは、八代亜紀の『雨の慕情』だった。もともと八代亜紀の歌が好きだったわたしには、『雨の慕情』が聞けたことはまさに僥倖だった。興奮しながら、素晴らしい歌の内容を「お父さん」に、村の言葉で伝えようとした。結論から言えば、翻訳は失敗したのだが、その経験は、文化や社会を知ることが往還する双方向的なコミュニケーションに基づくものであることを教えてくれた。この経験を通し、フローレスは、わたしにとってもうひとつの故郷となり、「卵」はやがて孵化することになった。

今月(2024年1月)10日、八代亜紀さんが亡くなられたことを知った。亡くなられたのは暮れであったという。訃報を得てから、彼女の歌を聞き、歌い、踊りながら哀悼している。ここ『木の家』では、静かに書きとめることをよって哀悼の意としたい。

 

 

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