チェーホフの連載を始めるにあたって
渡辺聡子
この度、ふえさんの大きな木の家に招んでいただき、嬉しく思っています。
私は長年チェーホフを愛読してきましたが、歳を重ねることや、何かの体験をきっかけに、あらためてチェーホフの作品や生き方の奥深さを知ることがあります。そのことをここでお話しできたらと思っています。初回は長くなってしまいましたが、どうぞよろしくお付き合いください。
「つとめを果たす」
コロナの初期に
コロナウィルスが登場した時に、あらためてチェーホフを考えることがありました。感染の初期、得体のしれないウィルスに多くの人が不安や怖さを感じたと思います。いったい何をどれだけすれば感染せずにすむのか、私自身もテレビやネットで専門家の意見を追う日々でした。
当時、私は退職していて、小さなボランティア活動をしていました。コロナによって、雇用やDVや子供の貧困など、さまざまな社会問題がより先鋭な形で噴出する中、私たちのボランティア活動もいっそう需要が高まっていたのですが、参加者が激減しました。報道番組を見ると、社会のいろいろな場所でそれぞれの人が知恵を働かせて奮闘しているようすが伝えられていて、私も行かなければという気持ちと、持病のある家族に感染したら? という怖れとで、ぐずぐずしていました。その時、最初に助けになったのは、よく似た状況を描いた本として紹されていたカミュの『ペスト』(1947)でした。
『ペスト』の主人公
アルジェリアのある港町に、消滅したと思われていたペストが突然現れ、不安と恐怖の中で町は完全に隔離されます。海上、陸上の行き来は断たれ、手紙も不可。物資の補給も不充分です。そんな先の見えない閉塞状況で、人々がどう生きたかが描かれます。
主人公の医師リウーは、患者を往診する中でいち早くペストを疑ったひとりでした。市当局は決定に手間取りますが、ついにペストを宣言せざるを得なくなり、市門は閉じられます。患者と死者の数が恐ろしい勢いで増え始め、医療も行政もひっ迫し、効果が怪しい血清さえ間に合いません。リウーは、苦痛に責め苛まれる患者や、狂おしい目ですがる家族と向き合い、非情な死亡宣告や隔離宣告を下さざるをえない日常に疲労困憊し、感情が麻痺することで辛うじて持ちこたえています。
ある神父は、これは傲慢な人間に神が与えたもうた試練であり、いかなる悲惨であろうと跪いて受け入れるべきであると説きますが、リウーは同意しません。ペストの意味を追求するより、今は目の前にいる人間を生き延びさせることが大事で、反省はその後でよい、と言います。患者は次々死んでいき、彼は「際限なく続く敗北」を認めていますが、それでも黙々と「自分の職務」を果たし続けます。それはヒロイズムとは無縁なもので、自分にとっての「誠実さ」なのだと言います。そして、「そういうことを誰が教えてくれたのか」と訊かれて、「貧乏が」と答えます。
彼の誠実さは徐々に周囲の人々の連帯を呼び、やがて志願者による保険隊が組織されます。小さな個人が集まって、消毒のできていない所を調べ、医者の手助けをし、患者や死者を運び、登録や統計を受け持ちます。この連帯が、崩れそうになる心を支えますが、ペストはこうした大切な仲間も容赦なく連れ去ります。そして、解放の日を迎える直前に、親友タル―を失い、転地療養していた妻の死亡通知を受け取ります。深い悲哀の中で彼は、自分が味わった苦悩も、恐怖も、喪失も、すべてともにペストに遭遇した誰かのものでもあることを思い、禍のさ中で自分たちが見たもの、教えられたことを書き残そうと決めます。
ここに至って、この小説が実はリウーによって書かれたものだったことが判明します。妻への思慕や再会への期待、絶望がほとんど語られていないのを不思議に思っていましたが、それは人々の苦悩の描写に溶かし込まれていたのでした。
最後は、彼が冒頭と同じ喘息病みの老人を往診する所で終わります。
リウーとチェーホフ
この小説を読み終えた時、私の気持ちが落ち着きました。ペストの前も、さ中も、後も、一貫して揺れないリウーの姿勢が私の動揺を鎮めてくれたのだと思います。そうか、こんな風に生きる人もいる、私もできることをやればいいんだと、すとんと胸に落ちたのです。感染にはもちろん気をつけて、でもむやみに恐がらずに行こう、という気持ちになり、家族の賛同も得て活動を再開しました。その時、これだけのことでもずいぶん悩む必要があったな、と自分を振り返りました。
そして、じつは、『ペスト』を読んでいる間じゅう、リウーがチェーホフに重なって見え、もし、カミュがチェーホフを読んでいたら、すごく好きだったんじゃないかと思っていたのです。まず、医師でもあったチェーホフがメリホヴォ村で農民の医療に献身した姿が重なり、それから、疫病、戦争、行き遭わせた時代といった、個人には抗いがたい運命の中でも、黙々と自分のつとめを果たす動じない姿が似ていると思ったのです。私の活動に足りないものがそこにあるような気がしました。
必要なのは、精一杯自分のつとめを果たすこと
チェーホフは38歳の時、妹に宛てた手紙で「必要なのは、精一杯自分のつとめを果たすこと、それに尽きる」と言っています。これは健康が悪化してヤルタへの転地を決めたころの手紙で、家族はまだメリホヴォ村に残り、チェーホフだけがヤルタに移って新しい家の建設を進めていました。妹からの手紙で、心配性のお母さんが、犬が吠えても、ペチカが鳴っても、いちいち悪いことの前兆のように思ってくよくよしていると知らされ、お母さんに伝えて欲しいと言っています。「犬やサモワールが何をしてみせようと、夏の後には冬が来るし、若さの後には老いが、幸せの後には不幸せが来て、またその逆になる。人も一生元気で楽しく暮らすことはできず、必ず何かを失うようにできている。アレクサンダー大王のような人でさえ、死なないわけにはいかなかった。何が来てもいいように心の準備をしておいて、どんなに悲しくても、こうなるしかなかったんだ、と受け入れられるようにしておかないといけない。必要なのは、精一杯自分のつとめを果たすこと、それだけなんだ」と。
この時のお母さんは、お父さんの死の直後で、まだそれを受け止め切れていなかったとも考えられますし、息子の健康が案じられてならなかったのかもしれません。それに対してチェーホフは、お母さんはお母さんの仕事を一生懸命する、それだけでよくて、あとのことは心配しようと、すまいと、なるようになっていくんだと諭しているように見えます。でも、それだけでなく、この伝言は彼の後半生とよく照応していて、自身の人生観そのものだったと思われます。彼はまさに自分の死や幸不幸にかかずらうことなく、「精一杯自分のつとめを果たした」人でした。38歳にしてこの達観!と驚きますが、それを可能にしたのは、やはり、1890年のサハリン体験だったでしょう。
なぜサハリンへ?
チェーホフは30歳の時、モスクワから1万キロ離れた流刑地兼植民地のサハリンへ、片道約3か月を費やして馬車と川船で行き、囚人と同居人に会って話し、その記録を1万枚近いカードに残すという荒業をやってのけました。当時すでに健康に不安があり、家族を養う責任もある中で、サハリンという、地理的にも社会環境的にも極限の地になぜ敢えて出かけて行ったのか? 兄の死や、創作の行き詰まり、サハリンそのものへの関心等、いろいろな憶測がなされていますが、ひとつには、周囲の観念的な議論に明け暮れているインテリゲンチャ―への嫌悪と痛烈な批判が、では、自分は作家としてどれだけ現実を知っているのか、という鋭い問いになって返ってきたことがあると思います。

出かける前の手紙には、「プーシキン賞をもらったが、文学として意味あることはただの1行も書いていない」「作家として本当に無知」「5年ほど身を隠してまじめな仕事をしなければ」等の発言が見られます。この焦燥を突破するには、とてつもない課題を自分に課した荒療治が必要だったのかもしれません。事前にたくさんの資料を集めて猛勉強し、本当にやってのけたところに、チェーホフという人の激しいまでに真摯な生き方を感じます。
旅の成果
サハリンでは、統計の結果より囚人たちとの話や実態から受ける印象が自分には大事なのだと言い、実際、過酷な現実の中に入っていきました。吐き気を催す鞭刑も最後まで見届けましたし、鉱山の狭い坑道にも実際に入ってみました。国家の管理下にあるはずの囚人が民間企業や官吏に奴隷労働をさせられている実態、薬も器具もない病院、発育不良の子供たちや「12歳の売春婦」等々の現実をつぶさに見ました。その驚きや心の傷み、憤りは、帰って書いた『サハリン島』(1903)の冷静な記述の行間から伝わってきます。同じ人間でありながら最果ての地に棄てられ、ここまで貶められた人々がいる一方、モスクワやペテルブルクのような都会には、他人の労働で飽食し、しゃべり、芸術を楽しんでいる貴族がいる、その両方を自分の眼で見たことが、ロシア社会の中の自分のつとめに眼を開かせたのだと思います。もともと貧困や下層にいる者の屈辱を知っている人でしたが、出かける前は「誰のために、何のために、僕は書くのか?」と迷路に陥っていた彼が、サハリン後は「すべてを見た」「肝心なのは働くこと、公正であること、あとのことは自ずとついて来る」と明言しています。


メリホヴォ村で
モスクワに帰ったチェーホフは、「医者ならば病人の中にいなければならず、作家ならば人々の中で暮らさなければならない」と述べ、モスクワ南方に230ヘクタールの土地を買い、メリホヴォ村の地主となります。そこには、サハリンの囚人たちに劣らぬ過酷な労働と貧困と無知蒙昧がありました。『ぺスト』のリウーが、自らの疲労困憊や苦悩を越えて目の前の患者の苦しみに応えたように、チェーホフも執筆の時間を犠牲にしてでも、医者として、地主として、農民の要請に応えていきます。

早朝5時から9時までの診察はすべて無料で、ぬかるんだ道でも難儀しながら往診しました。2年に渡ってコレラの防疫担当医を引き受けた時は、25の村を受け持ち、「一番お粗末な馬」で不慣れな土地を回り、時には雨に降りこまれ、夜くたくたになって寝ていても、犬が鳴くと呼び出しに来たのではないかと怯えている(一部は『ワーニャおじさん』の医師アーストロフのセリフにそのまま使われています)等々、親しい人への手紙に書いています。それでもチェーホフは、「モスクワで文学談義をしているよりましだ」と言います。

さらに、農民の要請に応え、豊かではない私財をつぎ込んで、子供達の学校を建て、道路を直し、礼拝堂も建てました。農民がずるく立ち回ったり、約束したわずかな金額も飲んでしまったり、という時は、厳しく言うこともありましたが、『百姓たち』(1897)という小説には、どんなに盗みや嘘や恥知らずなことがあっても、「その言い訳が彼らの生活の中に見出だせないようなものは何一つない」という記述が見られます。こうした献身的な活動は、農村の現実が求め、彼が選び取った「自分の仕事」だったのでしょう。

村の人たちは後に、「みんなが治してもらった」「チェーホフさんの畑でなら、ただでも喜んで働いた」と、感謝をこめて語っています。彼らと親しく冗談も交わし、子供たちを可愛がったチェーホフは、地主として上から施したのではなく、社会全体から見れば小さな変化でも、人々から感謝され、共に喜ぶことができる時に、自身もまた生きる甲斐を感じたのではないでしょうか。また、彼らの悲惨だけでなく、厳しくも大きい自然の中で、不如意が当たり前のような人生を生きるたくましさや、知恵や、優しさにも目を開かれ、それらは『学生』(1894)、『私の人生』(1896)、『谷間』(1900)などの作品に結実していきます。書斎にこもっていては書けない作品群でした。

『サハリン島』では、流刑地の実態を広く社会に知らしめ、どう思うかを読者に問いました。そして、サハリンの子供たちへ教科書や本を送っただけでなく、かつて自分を大きく成長させてくれた故郷の図書館にも、15年間で1700冊もの本を送り、誰もが本を読めるようになる日を思い描いて、優れた図書館を作るための提案、援助をしています。飢饉救援のよ
魂の欲求
でも、やはり働き過ぎたのでしょう、以前から持っていた結核をずいぶん悪化させました。医者なのに、なぜ自分の病気をこれだけ放置したのか、謎でもあり、皆が残念に思うところでもありますが、苦しむ人々に誠実に応えようとすると、身体がいくつあっても足りなかったのかもしれません。
チェーホフの手帳には、「社会の幸せのために奉仕したいという願いは、必ず自分の魂の欲求であり、個人的な幸せの条件でなければならない」という言葉が見られます。私などは、時に活動をアッピールしたい気持ちがちらつくことがありますが、リウーにも、チェーホフにも、そんな気配が全くないのは、それが自らの魂の欲求であり、誠実に向き合うことが生きる支柱にもなったからでしょう。彼らの黙々と働く姿に、気負いのなさと揺るぎなさが共存している訳が分かったような気がしました。
リウーの「貧乏が教えてくれた」という言葉も、チェーホフの出自や慎ましさとあいまって印象に残ります。
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参考
タガンローク時代(1860∼1879)
1860年(農奴解放の前年)にアゾフ海沿岸の港町タガンロークに7人兄弟の3番目として生まれる。幼少期は、食料雑貨店を営む父(16歳まで農奴だった)に鞭で服従させられる。店番をさせられ、父が組織した聖歌隊で歌わされ、家には厳しい規律があったが、父には父の愛情があり、教育を受けることができた。1876年に父が破産し、以後3年間自活を強いられて苦労した半面、抑圧から解放されて、知的、精神的に大きく成長する。
モスクワ時代(1879-1892)
奨学金を得てモスク大学医学部に学び、1884年に医者の資格を取る。家計の主たる担い手として、学生時代からユーモア短編を大量に書いて稼いでいたが、次第に才能を認められて、一流雑誌や新聞で本格的な小説を書くようになる。1888年にプーシキン賞受賞。1890年にサハリン島へ行き、囚人とその同居者に会って、1万枚近くの記録を取る。この旅行がその後の人生、作品を方向付ける。
メリホヴォ時代(1892-1898)
モスクワ南方メリホヴォの土地を買って地主になり、農民と親しく付き合う。執筆の傍ら精力的に社会活動を行う(農民の診察、コレラの防疫、学校建設、国勢調査、図書館活動など)。 執筆も充実したが、健康が悪化。1897年に大喀血を起こし、一時危険な状態になる。
ヤルタ時代(1898-1904)
転地療養の必要に迫られ、ヤルタに移って闘病しつつ執筆する。1901年に女優オリガ・クニッペルと結婚。モスクワとヤルタに別れて暮らす別居結婚となる。健康はますます悪化。1904年6月、妻と南ドイツの保養地バーデンワイレルにでかけて、当地で死去。