2)桃太郎伝説

桑山ひろ子
~生まれ育った滋賀県や、現在住んでいる岡山県の伝承を訪ねてみました~

「むかしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。」と聞くと、なんの話をおもいうかべるだろう。
ほとんどの人が、そらで「ある日、おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯にでかけました。おばあさんが川で洗濯をしていると、向こうのほうから大きな桃が~」と続けていけるのではないだろうか。その話をしてくれた人の声や部屋の中の明暗、においなどを思い出しながら。
今、機械や機械音に囲まれ、ほとんど声を発しなくても生活が完結する世の中だからこそ、子どもたちにこのような口承文芸を残してやりたいと思う。

昨年、20数年ぶりに孫の顔が見られた。おまけにもうすぐ曾孫の顔まで見られるという。20数年前には外国暮らしの最中で孫には何もしてやれなかったけれど、今度こそ私の声で話を届けてやりたいと、わくわくしながらこの子達の成長を待っている。
『桃太郎』の話はすでに室町時代末に原型があったという。江戸時代になると絵がつけられ、内容も元の形をのこしながらも、さまざまに変えられ80数種におよんでいる。その後、明治、大正、昭和とその時代に応じて内容、外見、性格などが変えられてきて、今は桃太郎も鬼も、かわいくやさしい外見になり、内容も幼児に親しみやすくなっている。

講談社1937年。 齋藤五百枝 絵
福音館書店 1965年。 赤羽末吉 絵
ひさかたチャイルド刊 わらべ きみか絵

本来,桃太郎は架空の「昔話」であり,特定の時代や場所の設定を持っていなかったのだが、岡山県特産の桃や吉備の国を連想させるきび団子、そして古くから岡山の地に伝わる『温羅(うら)伝説』などもあって、2018年に岡山県が桃太郎伝説の発祥地として日本遺産に認定され、観光に大いに役立っている。

岡山市がPR用に作った絵本

『温羅伝説』とは、土地の口頭伝承などによって伝えられてきたもので、年代のはっきりした最古の記録は『備中吉備津宮勧進帳』(1583)の中にある。
備中吉備津宮勧進帳

昭和初期に岡山在住の難波金之助(Ⅰ897-1973)が『桃太郎』の昔話の原型だとする説を提唱した。

『温羅伝説』(『吉備津彦命の温羅退治』)
 垂仁天皇(一説には崇神天皇)(3世紀前半)の時,百済の王子で名を温羅という鬼神が飛来して,備中国の鬼ノ城に住みつき悪事を働く。朝廷から派遣された五十狭芹彦命(いさぜりひこのみこと)が吉備中山に布陣して矢を射るが,温羅の射る矢と途中で食い合い落ちてしまう。そこで一度に二矢を放つと,一矢の方が温羅の左眼に当たり,血がふき出てとうとうと流れた。温羅は鯉になって,川から海に逃げようとしたが,命は鵜になって捕え,噛み上げた。温羅は降伏し「吉備」の名を奉るといい,これで五十狭芹彦命は吉備津彦命(きびつひこのみこと)となる。温羅の頭は串にさして首村(現在岡山市北区首部)にさらすが大声でほえ続ける。そこで釜殿のかまの下深く埋めたが,それでも鳴りやまない。ある夜,温羅の魂が命の夢に現れ「わが妻を召して命の神饌(しんせん)を炊かしめよ。さすれば我は命の使者となり,幸あらばゆたかに, 禍あらば荒らかに鳴り,民に賞罰を加える」と告げた。これが現在も行われている吉備津神社の釜殿の鳴釜神事(なるかましんじ)の起源という。(出典:岡山県大百科事典編集委員会 1980: 263)

日本百武伝「吉備津彦」

岡山には吉備津彦命を祀る吉備津神社とその分社である吉備津彦神社がある。吉備津神社に伝わる『吉備津宮縁起』の内容はほぼ上の通りで、温羅は身長は一丈四尺(4、2m)、両眼は爛爛と輝き、ぼうぼうと伸ばした髪や髭は燃えるような赤、数々の悪事を働いて民を苦しめたとある。

吉備津彦神社に伝わる『吉備津彦神社縁起』は少し違う。

ある日、朝鮮半島から大陸の王子と言われる身長2mを超える大男とその大勢の仲間が吉備の中山にたどりついた。この大男は温羅と呼ばれ、顔に髭を生やし、言葉が通じずよく怒るので、人々は恐れ鬼と呼んだ。ある時、大和の王に貢物を運ぶ人が通りかかり、温羅とその仲間が貢物の行き先を聞いたところ、鬼に襲われたと思って一目散に逃げ帰って朝廷に訴えた。ここから温羅と大和朝廷から派遣された吉備津彦命との戦いが始まる。そして、激しい戦いののち温羅は降伏し、吉備津彦命の家来となってよく尽くし、吉備の国はますます栄えた。温羅はその功績により、死後、吉備津彦命の近くの神社に祀られた。
『吉備津彦神社縁起」では、温羅はもともと何も悪事をはたらいていないのである。

このほかにも、説がある。
温羅は百済から造船技術や製鉄技術を伝え、吉備の国を繁栄に導き、民衆から親しまれて皆平穏に暮らしていたが、国内統一を図る大和朝廷は吉備の国の繁栄に脅威を覚えて吉備津彦命を温羅討伐に派遣した。
戦いに敗れた温羅は首を串刺しにされてさらされたが、何年もうなり続けた。吉備津神社の御釜殿の竈の下に埋めても、なお13年もうなり続けたとあるが、実は、この唸りは温羅を慕う吉備民衆の怨念だった、というものである。

『桃太郎伝説』では、温羅は鬼、吉備津彦命は桃太郎、温羅が伝え広めた造船技術や製鉄技術が桃太郎が持ち帰った宝物ということになる。
『温羅伝説』の時代は崇神天皇の時代とされており、3世紀前半ごろにあたる。

こうしてみると、昔から今に至るまで常に桃太郎、鬼、「宝物」の奪い合いという構図が繰り返されてきたことがわかる。なんと長い間、人類はむなしい戦いを懲りずに続けていることか。
殺しあえば、何もかも破壊され、残るのは悲しみと恨みばかり。話し合い、共に生きる道を探して協力すれば、人々は平穏な生活、幸せな生活ができるではないか。

かつて、桃太郎は、外国を敵とし勇猛果敢に戦う日本の英雄として、子どもたちを鼓舞するために語られたこともあるそうだが、二度とそのようなことがないよう、平和を守り、子どもたちに平穏な日々の大切さを教えるヒーローとして語り継がれていくことを願う。

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