納骨奇譚(「We Love 遊34号」より)

                    片山ふえ

これは2007年の秋に季刊冊子「We Love 遊」に書いたものです。
そのころ「千の風になって」の歌がブームになっていましたが、私たち姉妹は「あれはパパの歌ね!」と話したものです。父が千の風になった話、聞いてください。

私は今まで「遊」の中で何度か父のことを書いてきた。亡き父が現れて、ものを書けと勧めたなどと、尋常ならざることも書いたので、片山ふえは霊感の強い巫女的な女かとご想像の向きもあるかも知れない。だが、実は全くそうではない。他人様の霊になど、ついぞお目にかかったこともない。
だが、父だけはその辺りにいそうな気がする。父の亡くなったその夜に、「ずっと傍にいるからね」という父の声を聞いた、その鮮明な記憶のせいもある。私が何かを書くたびに、父のものとしか思えないメッセージが他の人を介して届いたという事実もある。
そして、父があの世に往かずに放浪しているのではないかと思う論拠(?)が、実は他にもあるのである。

それは偶然だと片付けるには、あまりにも不思議な成り行きであった。

父松村一雄が亡くなったのは、1981年3月30日の早朝のこと。心不全で、傍の母も気付かぬほど静かな大往生だったそうだ。文学を愛し、無頼派に憧れながらもなりきれず、家族を愛し、酒を愛して穏やかな生を全うした父であったが、既成の権威に対する反骨精神は旺盛で、哲学としての仏教には惹かれても、宗教としては無神論者であった。
「僕が死んでも生臭坊主のお経なんかいらないよ。シューベルトの〈冬の旅〉をかけてくれれば、それでいい」
それが生前の口癖の一つだったが、さていざその時になってみると、田舎のことではあるし、型通りのお葬式をしないというのもかえって大変なことである。

そこで残された家族は折衷案を考え出した。〈冬の旅〉はかける。これは故人の強い希望だからmustである。でも、故人にも少しは妥協をしてもらおう。お寺さん無しという訳にもいくまいから、家の近くのM寺はどうだろう。(宗派は違うのだが)先のご住職がなかなか豪快な人物で、父の愉快な飲み友達。あのM寺なら、父だってイヤだと言って化けても出るまい。そこでM寺の境内で〈冬の旅〉が流れるお葬式が粛々として執り行われて、父は小さな骨壺に収まった。ここまでは至極順当であった。

さて、我が松村家先祖代々の墓は、東京の多摩霊園にある。そこで、父のお骨の半分は多摩に、残りは父が終の棲家と定めた滋賀県彦根市のM寺に収めようということに決まった。
多摩霊園への納骨を数日後に控えた、その年の夏。一人残された母の元に、その日は姉の家族や私の家族が集まって、賑やかだった。多摩での納骨式には、東京の親類たちもたくさん参加してくれることになっていて、再会も待たれる。ノンビリと納骨の日の打ち合せなどをしながら、夏の気だるい午後が過ぎていき、少し暑さが和らいだころ、姉夫婦が分骨用の骨壺をM寺に取りに行くことになった。

ところが、行った二人がなかなか帰ってこない。やっと帰ってきた二人の顔を見て、私は思わず訊ねた。
「どうしたの?」
「お骨がないの」、キツネにつままれたような顔をして、姉が言う。
「アホな、ないはずないやろ!」と、これは我が亭主。そこで捜索隊を繰り出すことになった。捜索隊長は片山通夫。隊員は依然としてキツネにつままれたような顔の姉夫婦。まだ三才だった息子が、わーい、そーさくだ~!とはしゃいで、ぴょんぴょん跳ねながらついて行った。
私は母と四才の娘と「後方の守り」に当たったが、長い夏の日が暮れ始め、辺りに夕闇が立ちこめても、捜索隊は帰ってこない。物事に動じない母も流石に不安の色を浮かべ始めた。

彼らがやっと帰ってきたのは、もう夜も更けた頃だった。
「無い。どこにも無い!!」と亭主が疲れ切った顔で言う。納骨堂の中の松村家の引き出しに無かったので、大きな寺の隅々から、縁の下、石灯籠の中までのぞき、それでもないので、納骨堂の中の引き出しという引き出しを全部開けて、徹底的に探したのだそうな。勿論余所の仏様の平穏を乱すわけだから、ちゃんとお経をあげてご挨拶申し上げてからコトにかったのだと。日は暮れるし、真っ暗な納骨堂で懐中電灯の明かりだけをたよりに、一件ずつ骨壺の名前を確かめていく作業は、「ぞぞ~っとしたぞー」と剛胆なはずの通夫もさすがに参った様子。

一方姉たちは、「かくなる上は多摩霊園に何を持っていったらいいのか」という実際的問題の検討に入っている。納骨式の手はずがすっかり整って、大勢のお客様も来てくださる手前、「骨壺が消えました」とも言えないではないか! 協議の結果、新たに骨壺を買って父の愛用の眼鏡の玉を入れることになった。これならきっとコトコトとお骨っぽい音もするだろう。それにしても、大きな声で言えた話ではない。
「あのね、だいちゃん」、と姉が三才の我が息子に言う。息子は暗闇の捜索という一大ドラマを体験した興奮から、目を輝かせ、息を弾ませている。
「東京に行っても、お骨がないなんて、言っちゃだめよ。眼鏡だよなんて、絶対言わないでね」
「うん おばちゃん!」と息子は、重々しく頷く。
「ぼく めがねなんか はいってないよって ちゃーんといえるよ」
「!!!」

先の見通しが立ったところで、原因の究明となった。どうやら、こういうことだったらしい。
父が亡くなってまだ忌明けも済まないころ、M寺のご住職が突然交通事故で不慮の死をとげられた。まだお若かったのに……。きっとご住職は、戒名を書くとか、何かの理由で父の骨壺を納骨堂から持ち出して、自室かどこかに置かれたのだろう。そして、そのまま帰らぬ人となってしまわれた……。
でも、と私たちは思った。骨壺が消滅した訳ではないのだから、このお寺のどこかには在るのだ。いつか、何かの機会にきっと見つかるに違いない。それまで骨壺には眼鏡を入れておけばいい。
ところが――。
その数年後、このM寺が火災で焼けてしまったのである。芭蕉の門下、李由が住職を勤め、芭蕉もここに立ち寄ったという歴史のある寺、かつて一向一揆の折にはここに僧兵がたてこもったという大伽藍が、夜空を焦がして焼け落ちたのだ。そして、そこにあったであろう父のお骨も、その焔の中で文字通り「灰燼に帰してしまった」のである。

「親父様らしいよね」と私たち姉妹は笑う。既成の概念にとらわれることを嫌った父の墓には、自由な天地こそがふさわしい。骨壺に詰め込まれ、墓地の一角にちんまりと収まるなんて、およそ趣味ではなかったろう。
かくして、父のお骨は自由を得た。
そして父は、時々私の所に現れるのである。

さて、今までに父のことは随分書いた私だが、母のことは実は一度も書いたことがない。母と仲が悪かったとか、書くに値しない人だったとか言うことでは更々ない。母は、三人の娘がいまでも感嘆の念を禁じ得ない素晴らしい女性であった。書かない理由の一つは、ずばり「現れない」から。そしてまた、あまりにも貞女で優等生で、私の与太話のネタになりにくいということもある。

父の亡きあと、母は三年生きた。父の三回忌を済ませ、遺稿集を世に出し、そして安心したように父の後を追った。(六才になっていた息子は、母の死に顔を見て「おばあちゃん、きれいやね。今日は天国でおじいちゃんとけっこんしきやね!」と言ってみんなの涙を誘ったが、本当にそんなことを思わせる安らかな母の顔であった。)
母も多磨霊園とM寺に納骨したが、なにしろ優等生だから、父のようにエスケープしたりせずに、ちゃんとそこに収まって、最短コースで成仏したらしい。姉たちにも私のところにも、父はよくやって来たが、母が現れることはついぞなかった。
でも、そんな母のことがふっと気になり始めたのは、私たちの年のせいだろうか。
「考えてみれば、ママは淋しいんじゃないかしら」と昨年の夏、姉が言った。
「だってあんなに仲のよかったパパはどこかに行ってしまって居ないし、私たちは遠いからめったに訪ねてあげられないし…」
それもそうだ。我慢強い母だから、文句も言わずに収まっているが、きっと彦根で一人淋しい思いをしているに違いない。そこで私たち三姉妹は、みんなの行きやすい京都の寺に母の遺骨を移すことにした。幸い、友人Sさんの紹介で、黒谷の金戒光明寺という誠に由緒正しいお寺に引き受けていただけることになり、これ以上の場所はないと、一同胸をなで下ろした。
「ところで、パパはどうするの?」と姉がきいた。
「今さら納骨しなくてもいいんじゃない? だって、どうせお骨壺も空っぽなんだし、彼はどこにでも自由に出入りできるんだから、ママの所に行きたいときは、きっと勝手に忍んでいくわよ」と私。
「それもそうね」
という訳で、先日母だけの納骨を黒谷さんで無事執り行い、M寺から引きあげた父の骨壺は、私が家に持ち帰った。
「えらいモンを持ってあるくなぁ」と亭主がからかう。
「だって、お骨壺といってもただの空っぽの壺だもん。多摩には眼鏡を入れたけど、こっちは空っぽ」、そう言って私は骨壺を振ってみせた。すると、カタカタと音がするではないか!
な、な、なんと!! まさか、父が気まぐれを起こして、またここに収まっているのでは…?
私は震える指で骨壺を袋から取りだし、おっかなビックリ開けてみた。中から出てきたのは、父の腕時計であった。父が愛用していたSEIKOのねじ巻時計。25年も暗いところで眠っていたこの時計の、ネジをそっと巻いてみる。
すると、動いた!
カチカチと、その針の動きは正確で、命の手応えを感じさせる。父の時計に命が戻った!私は熱いものがこみあげてくるのを感じた。そう言えば、父は「ずっと傍にいるよ」と言ったっけ……。
今も、これを書く私の腕で、父の時計は確かな時を刻んでいる。
(2007年11月記)

 

後日譚ですが、この父の時計は今も健在で、夫が毎日ねじを巻いて使っています!

 

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