猫とかぼちゃ~伝承こぼればなし

桑山ひろ子

「暑い! 外出はやめたやめた!」と家にとじこもっているうちに、早いものでもう9月半ばだ。天気予報によると、まだまだこの暑さは続くという。昔の感覚から言えばとうに秋なのだが、ぎりぎり滑り込みで納涼譚はどうだろう。

子どもに「どんなお話がいい?」と聞くと、たいてい「こわいお話!」とかえってくる。
自分の子どもの頃を思い出してみても、夜トイレに行けなくなるのはわかっていても、やはりわくわくドキドキ、心臓は縮みあがりながらも、平気をよそおって聞いていた。
そこで今回は数ある怖い伝承話の中からちょっぴり怖い「猫とかぼちゃ」を話してみよう。
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猫とかぼちゃ 

昔、ある村に三吉という男がいて、トラという猫を飼っていた。ある日、三吉は川で魚をとり、いろりで煮たり、焼いたりしておった。それをトラが囲炉裏端に座って見ておったので、
「トラや、この魚を食うでないぞ。わしが苦労して捕ってきた魚じゃけえ、けっして食うでないぞ」と言いながら、料理した。
「トラよ、この魚を食うじゃないぞ」
三吉はさらに念押しをして、料理した魚を戸棚にしまった。
囲炉裏端のトラは聞こえたのか聞こえなかったのか、じっとすわったまま、目を開けたり閉じたりしておった。

その夜、三吉が寝床に入って眠りだすと、トラはのっそりと立ちあがった。あたりを見回し、寝ている三吉をのぞいてから、戸棚に近づいて行った。
トラは「この魚を食うじゃないゾ」と言われたからには、食うてやらねばなるまいと、音をたてないように戸棚を開け、魚を全部食べてしもうた。

次の朝、三吉が囲炉裏の火をたいてご飯を作り、魚を食べようと戸棚を見ると、昨夜の魚がなくなっているではないか。三吉は囲炉裏端で寝ているトラに、
「あれほど食うなと言うたのに、よくも食うたな。それも一匹も残さず全部食うとは何事じゃ」と言ったかと思うと、火箸でトラをたたき殺してしもうた。そして、死骸を山の畑の隅に埋めた。

次の年、畑にかぼちゃが芽をだした。つるはぐんぐん、ぐんぐん伸びて、夏になるとたくさんのかぼちゃがなった。
「こりゃ、たくさんかぼちゃがなったぞ」
三吉はさっそく熟れたかぼちゃを一つ取って煮て食べた。ところが、急におなかが痛くなってきた。
「痛い、痛い、おなかが痛い」
もうじっとしておられないほど腹が痛むので、医者を呼んで診てもらった。
「三吉さん、なにか変わったものを食べりゃせなんだかな」
「いや、別にあたるものや、変ったものは食べとりません。かぼちゃを煮て食べただけです」
「そのかぼちゃは、あんたが作ったかぼちゃかな」
「いえ、苗を植えんのに自然に生えたアダレ生えで、それに大きなかぼちゃがなったんで食べました」
「ふん、アダレ生えか。どうもおかしい。昔から、アダレ生えの生り物は食うなと言われとる。ひとつかぼちゃの根元を掘ってみよう」

医者が根元を掘ってみると、昨年殺して埋めた猫の口からかぼちゃが生えていた。殺された猫のトラが恨んで、三吉に仕返しをしたんじゃ。それで、三吉がそこに猫塚を作って祭ると、治らなかったお腹の痛いのがすぐに治った。猫というものは執念深いものじゃ。                           昔こっぷり

『桃太郎のふるさと 立石おじさんの民話』 23より

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わたしは、ねこ派かいぬ派かと聞かれれば、即座にねこ派と答える。道を歩いていて猫をみかけたら、なにかちょっかいをださずにはいられない。それでつれなくされようが、牙をむかれようが、なぜか「アハハ、そうか、そうか」と許せるが、犬だとそうはいかない。子どもの頃、かわいがろうと手を出したら、ガブリとかまれたのが尾をひいているのかもしれない。

猫は、約9500年前、地中海のキプロス島の遺跡の墓から骨が発掘されたことで、このころすでに人間とともにくらしていたことがわかる。

古代エジプトでは、猫は穀物を守る神聖な存在とされていた。

日本へは、6世紀半ばの仏教伝来とともに中国から船に乗ってきたと考えられている。
肉食である猫は穀物や書物に手を出す心配がなく、それらを食い荒らすネズミなどの害獣・害虫を駆除してくれる番人としての役割を期待されてのことだったようだ。平安時代(794~1192年ごろ)には高貴な身分の人たちからペットとして可愛がられていたという記録も残っている。
それなのに、なぜ民話に出てくる猫は、気味悪い化け猫で、人から嫌われているというより、恐れられているものが多いのだろうか。

調べてみると、おおよそ以下の理由によるようだ。
1 夜行性で目が光る。
2 時刻によって瞳の形が変わる。
3 足音を立てずに歩く。
4 温厚と思えば、時に野性的な面を見せる。
5 行動を制御しがたい。
6 爪が鋭い。
7 動きが身軽で、敏捷性がある。

北斎が描いた猫

さて、「かぼちゃ」のほうだが、この歴史も古い。紀元前8000年ごろにはすでに南米にあったという証拠があるそうだが、日本には16世紀ごろ、ポルトガル船によりカンボジア経由で持ち込まれ、そこから名前が「かぼちゃ」になったそうだ。かぼちゃの日本での歴史は意外に浅いのである。

「猫とかぼちゃ」という題名の民話は沖縄から青森あたりまで各地で語られている。これだけ広く語られていることを考えると、かぼちゃは栽培しやすく保存もきき、日本人の口にも合って、食卓によくあがっていたのであろう。

この話、各地で内容はさまざまであるが、最後に猫が殺されて畑に埋められ、そこからかぼちゃのつるが伸びてきて実がなり、それを食べた人間が死んだり、腹痛で苦しんだりする。かぼちゃのなったところを掘り起こしてみれば、猫の頭蓋骨の口や目からつるが伸びていたというのは共通である。
猫の腹からではなく頭蓋骨からというのが、猫の執念を感じさせて怖いところである。

さて、もう一つ、岡山の『猫とかぼちゃ』には「アダレ生えは食うな」という俗信が出てくる。

アダレ生えというのは、植えもしないのに、自然に芽をだして実がなったものを言うそうだ。他のところでは、ころ生え、天道もえ、のら生え、おのれ生えなどとも言うらしい。

ただし、生ごみを埋めたり、果物などのタネを捨てたりしたところから生えたものは、食べても大丈夫ということだ。

我が家にもねこの額ほどの庭があり、すこし畑を作っている。その肥料にと生ごみを埋めているのだが、そこからじゃがいもだの、かぼちゃだのが芽を出してくる。しかし、いくら大丈夫と言われても、この話を知ってからは、なんとも気持ち悪くて、つい芽のうちに摘んでしまう。

ところが、我が「ねこ愛」は、どんなに怖い化け猫話を聞こうともいささかも減りはしないのだ。不思議である。