ポーランドでの1週間
畔上 明
1989年11月10日ベルリンの壁崩壊のニュースは、私にとって人生の大きな転機となりました。
当時の私は、1970年代から80年代にかけてソ連との貿易、旅行、流通にかかわる仕事のことごとくで挫折を味わい、20代から30代にかけて七つもの職を転々としていたのですが、ベルリンの壁崩壊の後まもなく、北欧の現地ツアー手配会社「ツムラーレ」から誘いを受けたのです。39歳、不惑を迎える直前のことでした。
この会社は、1972年よりスウェーデン人ルンネ・ツムラーレ会長と日本人太田不二夫社長がデンマークのコペンハーゲンを拠点としてスカンジナヴィア専門の旅行手配を手掛けていました。1990年には東西ドイツが統一されるであろうことを見据えて、東独(ドイツ民主共和国)旅行局のマネジャー、エルケ・シューベルト女史を新設のツムラーレ・ベルリン支店の支店長に迎えました。変わりゆく東欧諸国が新たな旅行先になるであろうと想定し、取扱地域拡大を推し進めていったのです。そして日本の旅行会社向けの窓口の担い手として私が採用されました。まさに七転び八起きとなる8つ目の職場でした。私はエルケさんと連携しながらツアー・オペレーター「ツムラーレ」東京オフィスでの開拓事業に着手しました。ここでがむしゃらに働いた私は、ソ連邦が崩壊したのちの新生ロシアでの旅行手配担当も任され、2017年末、67歳になるまでこの仕事を28年間続けていくことが出来たのでした。
1976年のユーラシア放浪の目的の一つが、当時ビザを必要とした東欧諸国を見て回りたいという思いでした。それが十数年後の「ツムラーレ」からの呼掛けに合致したといえます。ソ連国内の個人旅行はこの時二度目でしたが、いよいよソ連を抜けて、東欧巡りの始まりです。最初に訪れたのはポーランドでした。
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現在のポーランドは、社会主義国であったイメージを一新するために先ず東欧ではなく中欧と言い換え、2004年EU加盟後著しい経済の発展を遂げていますが、半世紀前にはドイツとソ連に挟まれながらも独自の道を探っていました。それまでのポーランドは、分割と統合を繰り返す苦難の歴史を歩んでいたのです。ポーランドという国を理解するために、ここでその苦難の歴史の概略をたどっておくのも無駄ではないでしょう。
バルト海の南に住む西スラブ人の諸部族が統合されピャスト朝ポーランド公国が生まれたのが10世紀のこと。国家としてのスタートです。ドイツが神聖ローマ帝国であったころ、ポーランドはカソリック教を取入れ、隣国と対等に渡り合うようになります。1386年ヤドヴィ女王がリトアニア大公ヤギエウォと結婚したことから、ヤギエウォ王朝が始まり、のちの16-17世紀のポーランド・リトアニア共和国というヨーロッパ屈指の大国をつくる基となりました。
大国となったときにはロシアをも脅かす程の威力があったのですが、その前後は他国の侵略にさらされ続けます。13世紀にはドイツ騎士団にプロイセンを割譲され、14世紀にはモンゴル人の侵入に怯え、17世紀になるとスウェーデンの侵攻を機に国力が衰え、遂には、プロイセン、オーストリア、ロシアによる利権争いから1772年、93年、95年と三回に及ぶポーランド分割が行われて、1918年第一次世界大戦終結までの123年間に亘って国土が消滅してしまったのでした。
20世紀前半に国土を回復したものの、第二次世界大戦勃発、ナチス・ドイツとソ連との秘密議定書による再びの国土分割。
戦後ソ連の衛星国として共産党一党独裁のポーランド人民共和国が誕生。西ドイツの再軍備に伴うNATOに対抗して1955年にはソ連・東欧諸国間のワルシャワ条約機構が結成され、冷戦が過熱しました。
1956年ポズナニ暴動といった反ソ暴動、1980年グダンスク造船所労働組合による民主化運動などを経て、1989年自由選挙により共産党は終焉を迎えポーランド共和国が誕生、今日に至っています。
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さて、いよいよポーランドへと入国する1976年4月12日、気持ちは高揚していました。ソ連渡航に関しては前もって旅程を決め宿泊地の予約と共に払込みを済ませていなければビザは取れないという状況でしたが、ポーランドのビザ取得条件は滞在日数分一日10ズオティ(150円)の両替義務があるばかりで、宿泊や旅行ルートはその場で決めることが出来る自由さがありました。列車での国境手続きはごく形式的で、滞在日数分のポーランド通貨への換金義務も学生並みの半額にまけてくれるではありませんか。二十代半ばの私をかなり若く見てくれたのです。明け方の国境通過は気持ちを軽くしてくれ、規則を重んじるがんじがらめの国ではないという第一印象を与えてくれました。
後年「ツムラーレ」でポーランドの販売促進を行っていた時に、政府観光局の局長が「日本人がポーランドについて持つイメージはショパンでありアウシュヴィッツであって、それ以上広がらない」と嘆いていましたが、私も初めての訪問に際してはやはり、ユダヤ人にとっての悲劇の地アウシュヴィッツは是非訪れてみたいと思っていました。また、ポーランド分割による国土喪失の時代に、故国に対する並々ならぬ郷土愛がその作品に滲み出ていたピアノの詩人ショパン(1810-49)の調べに思いを寄せての旅でもありました。
ワルシャワのグランド駅に到着後、地下鉄で中央駅へ移動、その近代的で美しく繊細な都市造りを目にして、芸術家が輩出しておかしくない国だと思えました。当時のソ連でのプロバガンダの看板ばかりを見慣れてきた目からは、同じ社会主義の国でも大きく異なる印象を受けたのです。華やかな商店、劇場の広告の美しさ、そしてまた黒澤明監督の写真に目が留まりその掲示を見ると「デルス・ウザラー」でアカデミー賞を受賞したニュース。「何かお助けしましょうか」と気さくに英語で声を掛けてくる人々、ノーヴィ・スヴィアトのユースホステルを探していると、髭を生やした若き芸術家のような青年が目的地まで道連れとなって案内してくれます。
ユースホステルで宿泊手続きをしたところ、3泊で僅か20ズオティ(300円)、現在の日本の物価水準に計算し直しても500円程というあの当時の現地の途轍もない低価格に驚かされ俄かには信じ難くさえありました。
あの時あの場所ならではの出会いであったと思いますが、東独ライプチヒからやってきた生真面目そうな19歳の青年二人に誘われ「バー」でビールを飲んだ時にははにかむ様な奥床しさが伝わってきました。宿に戻ってみればバルト海の町スウプスクから500㎞南下して首都へと旅してきたポーランド人のテレサ、オラ、ヴィスニェフスカ、エラ、ボゼナと名乗る17,8歳の少女たちに囲まれ、薄っすらと髭を生やした青年たちもその場に加わって控え目な口調ながらも質問攻めに遭うのでした。何しろ動き回れるのは社会主義の国々の中だけなので、日本人と会うのは初めてという好奇心旺盛な若者たちから向けられたその視線は痛く感じるほどです。

ワルシャワの街巡りでは、ゲットー跡のモニュメントの先へと進み、戦後見事に復興を遂げたスタレ・ミャスト(旧市街)に入り込むと時間が遡ったようです。表玄関のモダンな街並みとは対照的で、子供の頃夢に出てきたような石だたみの広場、カラフルな家並みが一面絵画のようにつながりあっていて実に美しい。その一角で食べたお好み焼きのようなプロツキエの美味しかったこと。市の南ワジェンキ公園内のショパン像と池の調和、鳩と白鳥とアヒルと休息する人々とが仲良く共存している姿、その美しい景観に馴染んでいくうちに、ポーランド人の音楽や美術へ向かう創造力がそのようなところに秘められているのではと感じたものでした。

4月15日朝5時に目を覚まし、6時ワルシャワ発の列車で300㎞南のポーランド第二の都市クラクフへ向かいます。霧雨に煙る緑の畑がひたすら続き、晴れた日のポーランド平原の美しさを想像しながら10:48クラクフ駅到着。ユースホステルがあると聞いてきたコシチューシコ通り迄トロリーバスに乗ってやってきたところ、まるで城壁のような、白く堂々たる石積みの囲いの中に教会らしき建物が見えてきます。迷い込んだ末、中庭を歩く神父さんにユースホステルがこのあたりにないのか聞いてみました。すると神父さんは「きっと何かの間違いでしょう、ここは聖サルヴァトーレ(救世主)教会で、オレアンドレという2キロほど北上したところに若者向けの宿がありますよ。しかし、何という偶然でしょう、先ほどまでコルベ神父(1894-1941)について語り合っていたのです。アウシュヴィッツで餓死刑に処せられる囚人の身代わりとなった神父は、1930-36年長崎に布教に行っていたことから日本について話題が及んだと思ったら、いま目の前に日本人、神によるめぐりあわせではないかと思わせる出会い、どうぞ私たちの昼食の場に同席して下さい」と会堂内に招き入れてくれ、ジーンズ姿の私に修道士の上着のようなものを被せてくれたのです。
イェ-ジィ・ブルィワ神父は1928年生れの当時47歳、視覚障害者や聴覚障害者に向けた活動も行っており、点字や手話なども使いこなすとのこと、聾唖者の日本人ペンパルもいて大の日本びいきであると語り、我がクラクフに日本人の若者がやってきたからには大いに食べて飲んでもらわなければと、ワインも振舞ってくれました。会堂内の十人ばかりの聖職者たちがテーブルを囲み、ワルシャワでのユースホステルとはまた違った好奇に満ちた視線を浴びました。
私はイェージィ神父の真向かいに座りロシア語で会話していたのですが、神父はしゃべりながらも眉をひそめ、ソ連共産党の指導者が大嫌いなのだと言うのです。東欧圏はロシア語が通じるから大丈夫だろうと高を括っていた私の発想の安易さを思い知りました。

おごそかながらもくつろいだひと時を過ごした後、ミサを行っている姿の神父の写真を記念に頂戴ました。そして、絵葉書などのクラクフ土産に100ズオティのお小遣い銭まで添えて神父さんは門まで見送って下さり、その先は神学生のヴァツワフ・クロフスキという青年にオレアンドレのユースホステルまで案内してもらうこととなりました。
クラクフには4泊の滞在。先ずは30ズオティを払ってバスで1時間半揺られ西に65㎞先のオシフィエンチム(ドイツ名アウシュヴィッツ)に出掛けました。収容所入口の鉄門扉の上には「ARBEIT MACHT FREI(労働が自由をもたらす)」という何とも皮肉に満ちた文言が掲げられています。ガス室跡、死体焼却炉、28棟の赤煉瓦の建物の連なり、靴、カバン、絨毯につくりかえられる筈であった髪の毛の束、食器、眼鏡、歯ブラシ、帽子、囚人服の展示、収容されていたユダヤ人の瘦せこけた写真の数々……私はただただ言葉を失うばかりでした。
アウシュヴィッツを訪れたことで、そののちユダヤ人の問題に向き合う意識が変わりました。ユダヤ人についての歴史書、ヨーロッパとアメリカとユダヤ人との関わり、「アンネの日記」、「サラの鍵」「サウルの息子」を始めとする数々の映画、アラン・レネ監督「夜と霧」(1956年)からセルゲイ・ロズニッツァ監督「アウステルリッツ」(2016年)(ホロコーストの現場に観光客がごった返しその姿が鋭い視線で虚しく焙り出された映像記録)に至るまでの様々なドキュメンタリー、更には今日まで永遠と続く複雑なイスラエルとパレスチナの問題から目を背けることが出来なくなったのであります。
ユースホステルでは、大部屋での宿泊であるため大きな宝ものを得ることが出来ました。それは、多くの人々との出会いと別れです。様々なハンガリー人、そしてまた東欧からの移民が多いというオセアニアからの旅行者たちと親しくなりました。
戦火を免れた古色蒼然のクラクフ旧市街を終日一緒に歩き回ったのは、特に仲良くなったジョン・ディボヴィチという24歳の青年でした。ニュージーランドのオークランドからやって来たということでしたが、ユーゴスラヴィアのダルマシア地方コルチュラ島に伯母さんが住んでいて彼にとって東欧はルーツであり、「ドリナの橋」を書いたユーゴの作家アンドリッチが好きだと言います。また特にドストエフスキーを筆頭にロシア文学を3年間、さらに夏目漱石に興味を持って日本文学を2年間専攻し、今は音楽を学んでいて、ゆくゆくはピアノを続けていくつもりであると、ヴァヴェル城を歩き回りながら話してくれたものでした。

4月18日の復活祭には、信心深いハンガリー人ヨシェフと聖マリア聖堂でのミサに参加。無信仰の私もこころ洗われる思いで中央広場へと出たところで「アキラ、君は我が尊敬するアキラ・クロサワと同じ名前ではないか」と彼が言い、映画の話題に花が咲いて、場末の映画館へと足が向きアラン・ドロン主演の「ゾロ」を観たりもしたのでした。

当時のポーランドは社会主義国とはいえ何といってもカソリックの力が強いことをしっかりと見せてもらったこともあり、放浪から帰ってから2年後の1978年、クラクフのヴォイティワ大司教が第274代ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世(1920-2005)として選出された時には目を見張ったものです。
ヨハネ・パウロ2世はローマ法王として27年間の在位中129か国を訪問、1981年には教皇として初来日、広島、長崎を訪れ核兵器廃絶を訴えたことを記憶しておられる方もいらっしゃることでしょう。
ポーランドのカソリック教会について調べてみると、私を食事に招いて下さったイェージィ・ブルィワ神父は、ヨハネ・パウロ2世と同郷であることから長く交流が続いていたようです。1997年にはローマ法王より聖サルヴァトーレ教会での長年の奉仕活動により高位聖職者として名誉大司祭に任命されたとのこと。聖サルヴァトーレ教会の司祭としては1975年から30年間に亘って務められ、2022年の現地新聞によれば司祭に叙階されてから70年目を迎えられ94歳となりクラクフ大司教区では最高齢の聖職者であることが報じられたのでした。
「ツムラーレ」で日本の旅行会社に向けてポーランドのツアー提案をしていた時、ポーランドの見所として挙げたもの、サイトも併せて紹介しておきましょう。(青字をクリックするとサイトが出ます)。
ワルシャワ歴史地区
クラクフ歴史地区
アウシュヴィッツ
ヴィエリチカ岩塩坑
地動説を唱えたコペルニクスの生家も保存されている中世の街トルン
ドイツ騎士団のマルクボルク城 (以上はユネスコの世界遺産)
(ショパンの生家(ジェラゾヴァ・ヴォラ) (poland.travel))でピアノ演奏に触れる機会、
ワレサ(ヴァウェンサ)率いる「連帯」がポーランド民主化を導いた造船所で名を知られゴシックやルネッサンス建築が美しいグダンスク 、
レールと滑車で陸路を越えるエルブロンク運河 (ヴァルミア・マズーリ地方 ― 千湖の楽園 (poland.travel))
その他に特記事項として、新生ポーランドでは料理店が伝統料理に磨きをかけその洗練された美味しさからグルメ・ツアーがお薦めであること、そしてポーランドの国名の語源である平原の田園風景のえも言われぬ美しさ、また何よりカソリックの信仰がポーランド国内の多くの人々に行渡っていること、を挙げておきましょう。
2016年からはポーランド航空が日本との直行便を就航し、ポーランドは一層日本と近くなりました。国情は時代によって大きく変わってきていますが、私個人にとりましては、ポーランドと言えばイェージィ神父の会食の席に招かれたことが忘れえぬ好印象として、旅行業に於ける販売促進のモチヴェーションとなったのでした。