世界の彷徨い方 3

【砂漠の詩とコーランの響き】

中村小夜(Saya)

イスラーム世界を旅していると、毎日必ず耳にするのがアザーンです。
アザーンとは1日に5回、礼拝を呼びかける声です。この声が響き渡る地域、それが私の旅の世界、そして私の書く物語の舞台です。

人と車がごったがえし、砂埃が舞い上がるカイロの喧騒の中で。
聖書に描かれたカシオン山と、美しいバラダーの流れを抱くダマスカスの古都で。
ヒッチハイクで渡り歩いたシナイ半島の彼方に見えてくる海辺の町で。

光塔(ミナレット)の上から朗々と響く声は、やがてモスクからモスクへと広がり、町全体を包み込む雨のような合唱になります。

アッラーは至大なり
アッラーの他に神なし
ムハンマドは神の使徒なり
来たれ礼拝へ

来たれ天国の繁栄のために
アッラーは至大なり
アッラーの他に神なし

音声はこちら。
アザーン

今回はこの声に誘われながら、イスラームの「声」の世界に旅してみたいと思います。

コーランの響きが私を誘った

私がアラビア語やイスラームという未知の世界に興味を持ったきっかけは、たった一本のカセットテープでした。友人がトルコみやげに勝ってきてくれたコーランのテープです。初めて聴く異国の朗誦は、言葉の意味もわからないまま、どこまでも果てしない砂漠を吹き抜けていく風のような鮮やかな光景が私をとらえました。
「世の中にこんなに美しい響きの言葉があるのか」
と驚き、なんとかこの文字を読めるようになりたい、あの言葉の意味を知りたい、と思い、アラビア語の世界に取り憑かれるうちに、やがて旅に出て、シリアとエジプトに住み、彼の地の物語を書くようになってしまったのですから、まさに人生を変えた運命の「声」だといえるでしょう。

コーランとは、正確にはクルアーンと呼びますが、これは「読まれるもの」、特に、声に出して「読誦されるもの」を意味します。コーランは、唯一の神が天使ガブリエルを介して、読み書きができなかった預言者ムハンマドに読み聞かせたものとされているので、黙読するのではなく、音読を重視します。そのため、口に出して朗誦した時に美しい響きになるように独特の韻律で書かれています。イスラームの人々は毎日の礼拝をするたびにコーランの一節を唱え、自分の唱えた響きを繰り返し耳で聞いています。アラビア語が公用語ではない国の人も、コーランは必ずアラビア語で唱えます。

コーランは全部で114章あります。その一番最初の「開章の章」をご紹介しましょう。もっとも大切な章で、アラビア語ではたった7行です。

慈悲ぶかく慈愛あつき神の御名において。
神に讃えあれ、万有の主。

慈悲ぶかく慈愛あつきお方、
審判の日の主宰者に。
あなたをこそ我々は崇めまつる、
あなたにこそ助けを求めまつる。

われわれを正しい道に導きたまえ、
あなたが御恵みをお下しになった人々の道に、
お怒りにふれた者やさまよう者のではなくて。
(引用出典:藤本勝次責任編集「コーラン」中央公論社、1979)

音声はこちら。
https://www.youtube.com/watch?v=L4bIxuAJZB4&list=LL&index=1

宗教音楽もイコンも認めないイスラームの世界では、アラビア語のコーランによる「人間業を超えた詩的韻律美と音楽的朗誦美」を宗教芸術の域にまで高めたと言われています(イスラム事典/平凡社1994)。この美しい言葉をムスリムは1日5回、礼拝のたびに唱えていますので、日々の生活の中で彼らの血肉となっていることでしょう。

礼拝はモスクで行うとは限りません。家で祈る人もいれば、店の片隅に絨毯を敷いて祈りる市場の人もいます。旅先の砂漠で祈る人もいれば、飛行機の礼拝室で祈る人もいます。病院のベッドで体が動かせない人は首の動きだけで、あるいは目の動きだけでも構いません。いずれの場合も、必ずメッカの方角を向いて行いますので、地球上の時差を考えると、いつでもどこかで、この美しい言葉の響きが、メッカを中心として同心円状に広がっていることになります。

流浪の詩人王子イムルウ・カイスの物語

では、なぜイスラームの人々は、これほどまでに「言葉」に情熱を傾けたのか。それは、彼らの歴史に深く根ざしています。

イスラームがアラビア半島に起こったのは7世紀初めの622年です。日本史で言うと聖徳太子が亡くなった年です。では、それ以前の時代はというと「ジャーヒリーヤ」の時代と呼ばれています。これは「無明時代」を意味し、まだイスラームによって光がもたらされていない迷妄の時代を意味します。しかし、それは決して暗黒の時代ではありませんでした。アラビア半島の砂漠の生活の中心にあったのが、詩です。

当時の人々にとって、詩は娯楽であるだけでなく、部族の歴史や武勇伝を後世に伝える重要な手段でした。部族同士の戦いの中では、剣を交わす前に各部族の詩人が進み出て「詩の決戦」を交わし、その優劣によって戦う前に勝敗が決まったこともあったほどです。

アラビアの世界では、まだ文字による書記法が確立していませんでした。そのため、詩人は即興で詩を読み、人々はそれを口伝で伝えました。その中でも、ムアッラカートと呼ばれる7人の詩人による7つの詩は「黄金詩」とも呼ばれ、古代アラビア詩の最高傑作として今もなお語り継がれています。

その中で、最も有名な詩人がイムルウ・カイスです。イムルウ・カイスはアラビア半島北方のナジュドの平原を支配していたキンダ王国の最後の王子であり、詩聖と崇められながら、王国とともに滅びた悲劇の王子として名を残しています。

当時のアラビア世界では、部族同士の争いが絶え間なく続いていました。キンダ王国の王族の末っ子に生まれたイムルウ・カイスは、敵国の娘と交わった赤裸々な詩を詠み、自らのスキャンダルを広めるような掟破りのことを次々とします。しかし、そのみだらな詩の韻律のなんと美しいこと! たちまち王子の詩はアラビア中に広まります。
父親はそんな末息子を忌み嫌い、部族を追放します。当時の社会で部族への所属がないことは、空漠たる砂漠に一人で置き去りにされ、死を待つだけの身となることを意味します。イムルウ・カイスは部族からはみだした者たちが集まる盗賊団に身分を隠して入り込み、頭領となります。

そんな折、圧制を敷いていた父王は敵部族に殺され、キンダ王国は崩壊します。父王の遺言はただ一つ、「我の死を告げても嘆き悲しまなかった者に、王国を継がせよ」。
それを聴いた部族の長老たちは、王国を継ぐ者の証である剣と鎧をたずさえて、息子たちを順番に尋ね、父の死を告げました。1番目の兄は嘆き悲しみます。長老たちは何も告げずに引き返します。2番目の兄は半狂乱になり自分の服を引き裂きます。長老たちはやはり引き返します。このように、すべての兄弟たちの間を訪ねましたが、父王の死を嘆き悲しまない者など、誰一人いませんでした。

もはや王国は滅びるしかないのか、と絶望に沈んでいた時、ふとある者が、父王に追放された最後の息子がいることに思い当たりました。彼らはアラビア中を探し回ります。そうしてついに、遥か遠くの南の荒野で、盗賊団にまぎれていた王子を発見します。
側近たちがたどりついた時、イムルウ・カイスは仲間たちと骰子遊びに興じていました。対戦相手がサイコロを振ろうとしていたその時、長老は進み出て言いました。
「王子よ、父王が殺されました」
その場にいる誰もが、驚いて動きを留めました。イムルウ・カイスただ一人が、眉一つ動かさず、対戦相手に向かって言いました。
「賽を触れ。おまえの番だ」
ゲームは続けられ、イムルウ・カイスは自分の負けで終わらせます。
「おまえとのせっかくのゲームを台無しにしたくなかったんだ」
ゲームが終わるまで辛抱強く待っていた長老は、王国の剣と鎧を王子に差し出しました。
「あなたが王です。どうぞお受け取り下さい」

かつて自分を疎み、遠ざけ、殺そうとした父王であれ、父親の復讐は息子に課された義務でした。イムルウ・カイスは復讐を遂げ、亡国を再興させようと戦いに明け暮れますが、巨大なペルシア帝国とビザンティン帝国に挟まれて、砂漠を移動しながら戦う遍歴の王国にもはや力はありません。イムルウ・カイスは王国再興の夢虚しく、ビザンティン帝国の刺客に毒入りのマントを贈られて旅の途中で絶命します。

これらの多くは伝説の域を出ない逸話ですが、実際にあった王国の悲劇とは対照的に、イムルウ・カイスの残した詩があまりにも美しい韻律と魔術的な直喩を駆使した芸術の境地ともいえるものだったために、彼は歴史に名を留めることになったのです。

その詩、イムルウカイスの有名な黄金詩の冒頭部分を紹介します。

止まれ友よ いざ泣かん ここは愛しき女(ひと)の住まい跡
砂の波間がとぎれるあたり ダフールの地かハウマルか

はたやトゥディフかミクラーか おもかげは消えずとどまる
北風と南風が織りなすごとく いくども風に吹かれしものを

友はかたわらで手綱ひき 駱駝をとどめて我に言う
憂いに身を滅ぼすな 己を律し耐え忍べと

されど我を癒すは ただあふれ落つる涙のみ
荒れ果てし住まい跡に なんぞ頼れるものありや

音の響きを楽しみたい方はこちら
https://www.youtube.com/watch?v=fCu0fU5OZa8&list=LL&index=2

この時代、すでにアラビア詩は極限までの美しい韻律をもつ定型詩として完成されており、その芸術性においては古代ギリシャのホメロスにも匹敵すると言われています。おもしろいことに、この詩の影響を受けたヨーロッパの大詩人がいました。ゲーテです。彼は晩年、ペルシャの詩人ハーフェズに影響を受けて「西東詩集」を書いたのは有名な話ですが、それ以前のまだ30代のうちから、コーランやアラビア詩の研究もしていました。たとえば、こちらのゲーテの詩は、明らかに先ほどのイムルウ・カイスの詩の本歌取りをしています。

暗黒のはてなき砂漠の夜
われをしてただ泣かしめよ
馭者はねむり駱駝はすでに臥したり(中略)
風にとばされるはかない路ばたの埃に
わたしは切ない心のことばを書く
しかし真実の言葉のちからは消えぬ
塵とともに吹きとばされたあと
言葉は大地の底にしみている
いつか旅人がくるだろう
この地を踏むとき
おもわず彼の総身はふるえるにちがいない
おお すでに わたしのまえに
このような切ない愛があったかと
(引用出典:大山定一ほか『ゲーテ全集1』人文書院、1960年)

目の前の情景を淡々と並べるイムルウ・カイスと、豊かな描写と心情を加味したゲーテの言葉を比べると、千年の時を越えて共鳴する詩の源泉に触れる思いがします。

詩を凌駕するコーラン

さて、イスラームの預言者が生まれたのは、このような部族の争いと詩の決戦が渦巻くアラビアの地でした。ムハンマドが生を受けたメッカは交易の中心地で、そこでは大小さまざまな部族があり、それぞれに多数の神を崇め、互いに血で血を洗う争いを繰り広げていました。部族の王は、優れた詩人を召し抱えていました。詩人の解き放つ言葉は、部族の栄光を称え、敵を罵倒して無力化させる、一種のプロパガンダの役割も果たしていたのです。

預言者ムハンマドは、部族間の無益な争いや、血族に縛られた不自由な身分を捨て去り、人は誰もが唯一神の前では平等である、というイスラームの教えを広めようとしました。それは、父のいないムハンマドが、孤児として冷遇されていた社会に抵抗する心の叫びだったかもしれません。

しかし、社会を覆すような新しい教えを広めるためには、部族が抱える詩人たちの言葉すべてに打ち勝たねばなりませんでした。しかし、時代はもう7世紀です。聖書の時代なら通用したかもしれない伝説や奇跡が、もはや通用する時代ではありません。

そこで、ムハンマドに啓示されたのが、あらゆる詩を凌駕する美しい言葉、コーランでした。コーランは、定型韻律でがんじがらめにされた(それゆえに美しい)古代のアラビア詩と違い、サジュウ体と呼ばれる新しい自由韻律を生み出しました。口にして朗誦するだけでその抑揚に陶酔し、精神の高みへといざなわれる、この至高の言葉こそが「奇跡の証」であるとムハンマドは言いました。

コーランは、単に宗教的な教えを説いた書物ではありません。また、聖書のように格言や教訓に満ちているわけでもありません。しかしそれは、百花繚乱の溢れる言葉で聴く者の心を揺さぶります。そういう視点から見ると、イスラームはひとつの「言語革命」だったと言えるかもしれません。たとえば、特徴的な章句をひとつ取り上げてみます。これは、ユダヤ教やキリスト教と共通の「最後の審判」を描いた章句の一部です。

太陽がつつみ隠される時。
幾多の星が落ちる時。
幾多の山が飛び散る時。
はらんで十月(とつき)のらくだが捨てられる時。
野獣が集められる時。
海洋が沸きたち、あふれでる時。
幾多の魂が組みあわされる時。
生き埋めにされた女児たちが尋ねられる時。
どんな罪で殺されたかと。(中略)
その時こそ、魂は、そのなしたところをいっさい知る。
(81章「つつみかくすの章」/翻訳同上)

音声はこちら。
https://www.youtube.com/watch?v=6oblRru7Hbg

なんと壮大で、色鮮やかで、騒々しい描写でしょうか。まるで百鬼夜行のようです。強烈な光と、激しい音、生々しくも凄まじい光景は、終末の世を抽象的な概念としてではなく、聴く者の「五感」と「体感」を刺激する「リアルな体験」として浮き上がらせます。

イスラームは、この「言語革命」によって、部族や民族の争いを乗り越え、平安と平等を求めた1つの大きな共同体を結びつける精神性を手にしました。言葉の力によって、人々は新たな世界観を手に入れたのです。詩と口承文学の伝統が、やがて壮大なイスラーム世界を築き上げる原動力となっていきます。〈了〉

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