青木恵理子
若気のいたり、極意をはずす!?
1972年4月わたしは晴れて大学に入学した。団塊の世代のように「四当五落」――若い世代の方のために説明しますと、4時間睡眠なら合格するけど5時間睡眠とると不合格という受験勉強態勢を示す標語のようなもの――ということはなかったけれど、闇雲に受験勉強したせいか、合格を知ったとたん、嬉しさのなかになぜか虚しさが芽生え、膨らんでいった。合格発表から数日後には、虚しさがどっかりとわたしのなかに腰を下ろしていた。
そんなある日、母の前で、「大学って意味あるのかな」などとぼそりとつぶやいた。母の落胆はさぞかしだったろうと思う。なぜなら、その後すぐにわたしの部屋に入ると、ピカピカの書棚があり、書棚のガラス戸に貼ってあった半紙に、「恵理ちゃん、合格おめでとう」という母の慣れない文字が嬉し気に踊っていたからだ。母は、わたしをサプライズしようと、書棚を買って、わたしのいない間に搬入してもらっていたのだった。それに胸を突かれ、虚しさは次第に霧散していった。虚しさも大したものではなかった。
青春は迷うもの。その後も、あれこれ迷走した。その一つが文転。わたしはリケジョ(理系女子)だった。遺伝子研究したーい、医学研究をしたーい、天文学もいいかもーと思い、気の向くままに手を出し、あれなんか違うかなと思っていた。その傍ら演劇サークルとバスケットボール・サークルに入って、文系の友達にも沢山出会った。文学、哲学、社会学、歴史学、法学、経済学などなど、授業はずいぶんサボったけれど、門前の小僧のノリで耳学問を積んだ。それを頼りに、文化人類学を齧った。意味や価値観は、そして世界も、それぞれの文化によって異なる。諸文化間に優劣、高低、進遅の差はない。ただ単にそれぞれ独特。このような考え方は文化人類学の極意であり、文化相対主義と言われる。これはなかなかイケる。しかも長期のフィールドワーク(現地調査)が欠かせないという。どこか遠いところに行き、その土地に暮らすことによってしか習得できない言葉で日々暮らし、そこで穫れた作物だけ食べ2年すごす。細胞もすっかりその土地のものになってしまう。世界は変貌し、わたしも別人になる。まるで魔法の学問だ。
俄か独学ですっかり魅せられ、文転を決意した。文転の手続きを始める前に、娘の将来に期待しているかもしれない両親に納得してもらわなければと一週間悩んだあと、切り出した。文化人類学に進もうと思う、という緊張したわたしの申し出に父が言った。「ジンカブンルイガク??」「うん、ちょっと違う。ブンカジンルイガクね。」わたしは、なけなしの知識を使って、文化人類学がどのようなものか説明した。両親が「やりたいなら、しょうがないね」と言ったのか「好きなことをやったらいい」と言ったのか言葉は覚えてない。「まあ、よくわからないけど、どうぞ」という寛大な反応だった。このようにしてわたしの文化人類学とのお付き合いが始まった。
現在では、ビジネスや医療に文化人類学の発想を、文化人類学で社会をデザインする、マーケティングにフィールドワークの技法を、など、かつて予想しなかった形で、文化人類学への関心が高まっているが、1970年代当時、「魔法の学問」はとてもマイナーだった。小学校の教員だった父が「ジンカブンルイガク?」と意味不明の問い返しをしたのも無理はなかった。
大学の文化人類学コースのメンバーは毎学年5名ほど。鉄筋コンクリートの建物が立ち並ぶキャンパスのはずれの、一段下がったところに古い木造の建物があった。その一隅、十畳くらいの2室が、文化人類学コースの部屋だった。狭い廊下は、いつも薄暗く、ジメっとして、床油のにおいがした。こう記述してみると、「魔法の学問」にふさわしい周辺性とほの暗さが建物に反映されていたようにも見えるが、20歳そこそこのわたしは、覚え始めたおしゃれな服装を楽しみながら、ルンルン気分でそこに通っていた。やがて、しばしば迷走しながらも大学院に進み、1979年8月フローレス島でフィールドワークを始めた。2ヶ月後にマラリアに罹り、九死に一生を得た。町で2ヶ月の療養後、村の生活に戻った(四の巻、五の巻ご覧ください)。
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フィールドワークも軌道に乗ってきたころ、わたしたちの居候先の「父さん」ドンダさんが音頭をとって、村の小学校のぼろぼろの校舎を改築しようということになった。とはいうものの村にはお金がない。県知事から補助金をもらおう。そのためには、まずは、県知事に視察に来てもらおう。遠来の客にはご馳走が欠かせない。県知事は、部下たちを何人も従えてやってくるに違いない。さあ、村総出でご馳走の用意だ。インドネシア風[1]の串焼き肉や焼きそば料理も用意しよう。男たちが材料を調達し、豚を屠る。女たちは調理係だ。準備のために村が俄かに動き始めた。
わたしも、ドンダさんやパマ「母さん」[2]の後について、できることをお手伝いしようと右往左往していた。そして気が付いた。この活動への村人たちの足並みはそろっていない。いわゆる温度差というやつだ。ご馳走づくりには女たちの手が必要だけど、協力してない家もある。教育はとても大切なのに。ドンダさんたちはそれを理解しているから、県知事を招待しようとしている。それなのに……。
むやみやたらに熱くなったわたしは、村のすべての家の女の人たちを集会所に招いて、今回の県知事招待の重要性を、教育の重要性とともに、村の言葉(エンデ語)でアピールすることにした。集会場に各家の主だった女の人たち、とくに、協力的でない家の女の人たちが来たのを確認して、わたしは、村の言葉で話し始めた。どれくらい話しただろう。多分5分か、10分か。長くはなかった。突然、年配の女性バゴさんが、護身の呪文「わたしの過ちは大きくない、わたしの曲がりくねりは長くない、祖父母の支えよ、曾祖父母の護りよ……」を唱えながら、意識を失ってしまったのだ。女性たちはバゴさんの周りにあつまり、手厚くケアし始めた。わたしもその一員に加わった。わたしが企画した集会はあっけなく終わり、別の、おそらくもっと重要な、集会がそこに出現していた。

確かにバゴさんは、ドンダさんの呼びかけに非協力的だった。おそらく、わたしのスピーチが彼女にとって攻撃的響きをもったのだろう。一年足らずのフィールドワークで、一体わたしに、村人たちの関係の何がわかっていただろう。彼女たちそれぞれの考え方の何がわかっていただろう。ドンダさんの考えさえ理解していなかったかもしれない。バゴさんの世代は、バゴさんの両親の世代、祖父母の世代、曾祖父母の世代、さらにその上の世代同様、学校教育なしで暮らしを紡ぎ、次世代を育み、固有の意味と価値観に満ちた世界を生み出してきた。重病人が出た時などには村人たちが総出でケアするのも彼女たちの世界ならではのことだ。学校教育は、いわゆる近代化されたわたしたちの世界では、子供を育むためのほぼ唯一の方法であり、少し聖性を帯びている。学校教育という方法と村人たちの子どもの育み方は、どちらかが優っているわけではなく、それぞれ独特なのだ。村人の生活に1960年代に加わった学校教育をどのように暮らしに取り入れていくかは、村人自身が決めていくことだ。わたしは、文化人類学の極意を、若気のいたりで、踏み外してしまった。
女性たちのケアの甲斐あって、バゴさんはすぐに意識を取り戻した。県知事招待の話は、県知事の都合で立ち消えになった。その後、わたしのスピーチ騒ぎは、村人の価値観に影響を与えることもなく、村人とわたしの関係に影を落とすこともなかった。バゴさんは頻繁にご飯に呼んでくれた。

あれから45年、現在、村人のなかにも高学歴者が増えた。高学歴者は、村の生活で一目置かれることが多いかもしれないが、村の生活で、近代教育で受けた知をひけらかすことはない。村のくらしは、45年前同様、村人総出で、手探りで紡ぎ出されている。それを理解しない宙に浮いた知識は、わたしの若気のいたりのスピーチがバゴさんの護身の呪文に撥ねかえされてしまったように、村人のくらしの弾力性に撥ねかえされてしまう。45年間に村のくらしは大きく変わったが、村人自らが紡ぎ出す力強さは現在でも健在だ。
註)
[1] 村の人たちにとって、当時、インドネシア国家はかなり他所者であった。例えば、ドンダさんは、フローレスの歴史を語る時、他所から、まずポルトガルがやってきた、次にオランダがきて、日本が来て、最後にインドネシアが来たと述べていた。彼は、文字はほとんど読まなかったが、村の知者だった。
[2] ドンダさんとパマさんがわたしの「父さん」と「母さん」になる経緯については、「もうひとつの故郷 弐の巻」をご覧ください。
