伝承「草津の乳母餅」二題  滋賀県草津市のものと 岡山県総社市のもの

桑山ひろ子
~生まれ育った滋賀県や、現在住んでいる岡山県の伝承を訪ねてみました~

「草津のうばがもち」と言えば、上に白いあんがぽちっとのっている一口サイズの小さいあんころ餅で、現在も滋賀県草津市の土産物として第一に挙げられている。

草津市は、東海道と中仙道の合する交通の要衝であり、東海道53次の52番目の宿場町であった。旅人の街道での楽しみは、疲れた足を休める茶屋での一休みで、餅は腹持ちもよく旅人に歓迎されたというから、草津の「うばがもち」も旅人に人気の餅の一つであっただろう。

東海道草津宿
東海道草津宿

私は近江八幡で生まれ育ったのだが、草津には母方の親戚が多く住んでおり、子供の時から馴染んでいる町で、うばがもちは今でも実家に帰るたびに買い求めるものの一つである。

では、なぜ草津の餅は「うばがもち」と名付けられたのか。

 

滋賀県草津の「うばがもち」伝承

「うばがもち」の老舗の命名由来によると、

戦国時代、織田信長が諸国を制覇し、近江の守護代となったとき、近江源氏の佐々木義賢も信長に滅ぼされた。その際、三歳になる義賢の曾孫を乳母の福井とのに託した。乳母は郷里草津に身を潜め、餅を作っては往来の人に売って暮しを立て、主君の曾孫を養育しながら質素に暮らした。周囲の人たちは乳母の誠実さにうたれ、誰いうことなく「うばがもち」と名がついて広まった。そののち関ケ原の戦いを経て徳川方が勝利し、家康が大阪の陣に赴いた際、当時八十四歳で健在だったその乳母が餅を献じたところ、家康は乳母の長寿を喜んでその誠実な生き方を称えた。以来、公卿や大名も通りがかったときは必ずここで餅を買い求めたといわれている。

岡山県総社市の「乳母餅(うばもち」伝承

岡山県総社市は、令和3年に市内で語り継がれている昔話(60話)を市重要無形民俗文化財に指定したが、なんとその中にも「草津の乳母餅」(語り:山本三穂、執筆:今村勝臣)という話がある。原典は『御津郡昔話集』(全国昔話記録の一冊、柳田国男編)で、昭和18年に三省堂から刊行されている。

 ところが、この総社の「草津の乳母餅」は、滋賀県の美談とは全くちがっている。それは、こんな話である。

昔、草津で宿屋をしている家があった。そこは表向きは宿屋だが、客が泊まると、宿屋の主は隣の男といっしょになって客を殺し、有り金を全部取って死体は湖に投げ捨てていた。その宿屋には一人の子供がいて、乳母を雇って育てていた。乳母は主人と隣の男の仕業を困ったものだと思っていても、雇われの身では口にだせず、いつも心を痛めていた。

ある日、その宿屋に一人の侍が泊まった。乳母は、侍なら知識が豊富だろうから謎をかけて知らせてみようと、侍が泊まっている隣の部屋で子守りをしながらこんな子守歌を歌った。

♪ねんねんねんねん ねんねんや
ねんころ ねんころ ねんころや
りんかじん(隣家人)と かじん(家人)と
ごん(言)することを もん(聞)すれば
りょじん(旅人)を さっ(殺)すると
くさ(草)の くさ(艸)を かって(→早)
やま(山)と やま(山)を かさねて(→出)
ねんねんねんねん ねんねんや
りんかじんと かじんと
ごんすることを もんすれば……

何回も何回も同じ歌が聞こえてくるので、侍は聞きなれん子守歌だなと思って、矢立を出して紙に書き留めてみた。すると、隣の人と家の人が言っていることを聞いたら、旅の人を殺すということだから早くこの家を出ろという意味にとれた。

その夜、侍は寝床の中に行燈を入れて寝ているようにみせかけて、自分は押し入れの中に隠れた。
夜中になって二人の男がやってきて、あいくちで布団の上から突き刺したところで、押し入れの中から飛び出し、二人を縄で縛り上げてお上に突き出した。

宿の主人と隣の家の男ははりつけになり、乳母はお殿様から褒美をたくさんもらったうえに餅でも売って暮らせと宿屋ももらった。
乳母がそこで餅を作って売りだすと、その話を聞いた人たちが感心して次から次に買いに来たので、その店はどんどん繁盛したという。

日本民話の会会長の立石憲利先生によると、これは「子守歌内通」に分類される話で、知識、知恵があるということは大事だと教える内容になっており、全国的に伝承されているが、採録数は多くないとのことである。また、もともとあった話にあとで別の話を付けくわえ、その付け加えたものを題名にするというのもよくあるということである。
この話では、「子守歌内通」の話に「うばがもち」が付けくわえられて伝説化したものであり、題名も「草津の乳母餅」とされている。

昔むかし、草津のうばがもちが遠く総社の町に伝わり、子守歌内通の話とむすびついたのにはどんな経緯があったのか、興味深い。

 

 

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