ユーラシア放浪 リトアニア’76

畔上 明

若き日の揺れ動く心をかかえて横浜を出たのは1976年3月26日のこと。9ヶ月の長きにわたった私の放浪の旅の始まりでした。ナホトカ航路からシベリア鉄道の道中では日本人旅行者との出会いと別れがありましたが、モスクワから先はいよいよ日本人一人旅です。

4月9日金曜日、日本を離れて15日目。私はソ連北西部の小国リトアニアの首都ヴィリニュスで朝を迎えました。

しかしここでの体験をお話しする前に、まずはリトアニアという国について、少し説明しておきましょう。

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リトアニアは、バルト三国の一番南に位置し、西側はポーランドと接しています。20世紀に於いて世界最大の面積(2240万㎢)を有していたソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)、その中でリトアニアは、ソ連全体の0.3%弱(6.5万㎢)という日本の東北地方の面積ほどの可愛らしい国です。
14世紀キリスト教化されるまではヨーロッパ最後の異教の地と言われたリトアニアだけに風土に多神教の名残りも見られるのですが、社会主義国家の時代であってもカソリックの信仰心の強さは並々ならぬものがありました。
印欧語バルト語派というヨーロッパで最も古い言語的特徴を持つリトアニア語が文化の基盤となっており、その独自の言語はリトアニア人の誇りとするところです。
ポーランドと合同で国をつくった歴史もあることから、その影響も随所に見られます。そして、18世紀末のポーランド分割に際してはリトアニアはロシア帝国の領土となりました。
第二次世界大戦中にはソ連に組み込まれ、1991年のソ連崩壊の前年に独立回復宣言をしたという複雑な歴史を持つ国でもあります。

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さて、モスクワからヴィリニュスまでの旅で、私は11歳年上の黒人男性ガストンと道連れになりました。ヴィリニュスに到着したとき、「明日の晩また会いましょう」と言われて慌ただしく別れたものの、彼がヴィリニュスに何のためにやって来たのか、今どこに居るのか分かりません。

ゲドゥミナス城址からの眺め

とりあえず、街をゆっくり散策してみることにしました。旧市街の石だたみの道は細く長く彎曲し、道に沿った塀や家並みも波になって続いています。
ゲドゥミナス城址の丘に上がり下町を見下ろせば、童話のような赤い屋根の並ぶ小さな町が握ってつかまえることが出来るのではと思えるほどです。バロック様式、或いは新古典

ネリス河河畔

主義建築のカソリック教会が多く建ち並び、ここが社会主義国ソ連の一部であることを忘れてしまいそうになります。
ネリス川の流れに沿って歩いていると橋のたもとにカモメが幾羽も飛び回っていて、いつまでも見続けて飽きることがありません。これぞ時間に束縛されない旅の面白さなのだと心が満たされていきます。

夕刻ホテルに戻ってみると、ガストンが愛くるしい女の子を連れて私を待ちかまえていました。
彼は36歳。西アフリカのマリ出身で、モスクワ大学の大学院生だということでした。大学で知り合ったリトアニア人女性と結婚、連れてきた少女は彼の5歳になる娘のガヴィでした。ガヴィの肌の色は黒く、容姿は幼稚園児とは思えぬおませな美しい輝きがあります。
「妻の実家に招待します」と誘われて、ホテル前より市バスに乗車。
バスで川を越えて北東へ走ること20分。ジルムーナィ団地の中のジェーツキー・サート(幼稚園)という停留所で下車し、アパートが並んだ5棟目の1階の住宅にお邪魔することになりました。

迎えてくれたヴィクトリヤ夫人は、安部公房の「砂の女」をリトアニア語で読み、日本の詩にも興味を抱き、「他人の顔」や黒澤明の映画を観たという日本びいきのジャーナリスト、そのためにガストンは私を招いたようでもあります。私との会話はガストン同様ロシア語でしたが、その母親は貴婦人然とした風格があり、ロシア語を話すのは潔しとしないのでしょう、娘を通じてリトアニア語に通訳してもらうような方でした。14-15世紀リトアニア大公国はヨーロッパ最大の大国であったことを聞くうちに、住まいそのものも何とはなしにたいへん裕福な気配に感じられました。アパートの外観からは想像がつきにくい豪華な趣きのある内装、アンティックな家具に目が向きます。

ガストン、ヴィクトリヤ夫妻と愛娘ガヴィ

リトアニアのチーズと自家製サラダ、さらに次から次へと料理の皿が並べられ、ウォッカで乾杯。ガストンと共にご婦人方も杯を空け、私は二杯飲んだところでもうフラフラだと言うと「神は父と子と聖霊のために少なくとも三杯飲まなければ承知しない」と説き伏せられてしまうのでした。

なんでも、ガストンは7年前に留学生としてソ連にやって来て、2年前にはマニラから日本へも立ち寄ったことがあるとのこと。「これは5冊目」という出版されたばかりのフランス語の詩集を見せてもらったところ、冒頭には彼の写真が載っていて、彼の正式な名前はガウス・ディアワラであると知りました。
ガヴィはロシア語もリトアニア語も話すことにかけては父親よりも達者で、団地でも幼稚園でも人気者。「私の顔はどちらに似ているかしら?」と恥じらいがちに聞いてきました。

リトアニアについて誇り高く語るお母さん。お土産にと、リトアニアのカレンダーと絵葉書を、そしてまたチュルリョーニスという画家の連作「天地創造」を持たせてくれた上、リトアニアなればこそのプレゼントと手渡されたのは、ギンタレス(琥珀)の指輪、将来のいいなずけに上げて下さいとの言葉には感極まってしまいました。
日の暮れるのが遅いと思っていたら、いつの間にか夜10時半。タクシーを電話で呼んでもらい、その代金まで前払いしてくれたのです。

当時ソ連は100の民族が仲良く共存すると謳われていました。それまでのソ連の旅では、スラヴ系の人たちと接することが多かったのですが、異文化の地に足を踏み入れ気持ち良く酔う内に、なるほどとその感を得た思いでした。
それから15年後にはソ連邦が崩壊して15の国がそれぞれ独自の道を歩み出すとは考えもしない時代の雰囲気がありました。しかし、ガストン一家との団らんの会話の中で「ソ連の制作する戦争映画では、ファシスト・ドイツの役柄はリトアニア人がやらされる」という言葉も聞きました。もしかしたらそうしたささいとも思える意識の中に、今日の民族分断の兆しが微かに見えていたのかもしれません。

現在のヴィリニュスの街並み

これを書いて、ガストン一家を懐かしく思い出しました。
9ヶ月の放浪から戻ってから、写真を送付したというおぼろげな記憶はあるものの、生活に追われるうちに交信出来ずに歳月が流れてしまったのです。
何か彼らのことがわからないかと、ネットで検索してみたら、ありました!
なんと、ガストンことガウス・ディアワラはマリを代表する詩人で劇作家だとのこと。
夫妻と娘さんはあの後ガストンの故郷マリに移り住み、35年間アフリカで生活したのちにリトアニアへと戻られたとか。ヴィクトリヤ夫人も作家としての活動を続けているとのことです。
思いがけず、旧友に再会できたような気持ちになりました。

 

 

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