『7本指の自画像』(1912)
『ロシア、ロバ、その他のものたちへ』(1912)
(季刊冊子「We Love 遊」89号~91号掲載)
今回はシャガールの作品の中でも最も多くの意味が描き込まれている『7本指の自画像』(1912)を読み解いて行こうと思います。
『7本指の自画像』はパリのアトリエ<ラ・リューシュ>で制作中のシャガール自身の姿を描いたものです。絵の中でシャガールは7本指で作品を制作中ですが、この制作中の作品は『ロシア、ロバ、その他の者たちへ』(1912年)です。

また画家の背後にある窓からエッフェル塔のあるパリの風景が見えますが、同じ風景が『窓越しに見えるパリ』(1913年)という独立した作品になっています。

つまり、『7本指の自画像』には『ロシア、ロバ、その他の者たちへ』と『窓越しに見えるパリ』が描き込まれているわけで、『7本指の自画像』は何を描いた作品なのかを考える場合、3つの作品を関連づけて考えなければなりません。
ところが、『7本指の自画像』はアムステルダム市立美術館所蔵、『ロシア、ろば、その他のものたちへ』はパリのポンピドゥー国立芸術文化センター所蔵、『窓越しに見えるパリ』はニューヨークのグッゲンハイム美術館所蔵になっていて、そのためか、どの解説・論文を読んでも、この3つの作品を個々バラバラに論じています。私から見ると、全く見当外れな解説が世の中に流布しているように思えます。
では、『7本指の自画像』に描かれている図像を一つずつ検討して行きましょう。画面上部の左端には窓から見えるパリの風景が描かれていますが、右端にはシャガールの頭の中から湧き出てきた雲の中に町が描かれています。町の中にはドーム式屋根の教会がありますので、これはロシア正教の教会であると分かります。それでこの町はロシアの町ということになります。
さらに面白いことには、シャガールは念を押すように、画面上部の壁(頭の上の部分)に、見えにくいですが、ヘブライ文字で窓の右横に<パリ>、雲の左横に<ロシア>と書き込んでいます。このように漫画の吹き出しのような雲の中に何かを描いたり、文字で何を描いたのかを知らせるというのは、西欧の絵画ではほとんど見ない手法です。しかし、これはシャガールの独創ではありません。シャガールはこの手法をロシア正教の聖像画イコンから学んで借用しています。シャガールがペテルブルグで学んでいた時期に、彼はアレクサンドル3世美術館(現在のロシア美術館)に行き、イコンをよく見て研究しています。たとえば、下図『マトベイ、ルカ、マルコ、アンドレイと天使たち』(1408年、アンドレイ・ルブリョフ作)では、前列の4人が誰であるかが分かるように文字(イニシャル)を書き入れています。
また、下図『神に愛される生神女』(生神女とは聖母の意味)では、神が雲の中に描かれています。
またユダヤ教の聖典である律法(旧約聖書)を読むと、神がユダヤの民に約束した救済の象徴である虹が、雲の中に置かれていることが分かります。「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる(『創世記』9章)」。ユダヤ・キリスト教では聖なるものは雲の中に現れるのです。『神に愛される生神女』などのイコンはそれを視覚的に表現しています。
シャガールはユダヤ人ですが、ユダヤ教の偶像崇拝禁止(視覚芸術禁止)の戒律から自由になって画家になった新しい世代のユダヤ人ですから、ロシア正教のイコンの表現方法を躊躇することなく取り入れているのです。
『7本指の自画像』のシャガールの頭から湧き出ている雲の中に描かれているロシアの町は、雲の中に描かれていることからシャガールにとって聖なるもの大切なものであることが分かります。絵の中のシャガールは、彼にとって大切なロシアの町を頭の中で思い浮かべながら『ロシア、ロバ、その他の者たちへ』を制作しているのです。
では、「7本指」はどういう意味なのでしょうか? これは東方ユダヤ人の日常語であるイディッシュ語の慣用句「7本指で〜する」に由来しますが、その解釈は分かれています。
①「大急ぎで〜する」 (ダニエル・マルシェッソー)、
②「イディッシュ語で、何か物事をうまく行ったときに、7本全部の指でなす、という。これが良く出来た作品であることを誇らしく示している」(ジル・ホロンスキー)、
③「心を込めて〜を行なう」 (ズィヴァ・アミシャイ・マイセルズ)
④「人間の7つの感覚をすべて使って〜する」(ベンジャミン・ハルシャフ)
「7本指」の意味を考える場合、なぜ6本指でも8本指でもないのかを考える必要があるでしょう。慣用句になっているのですから、ユダヤ文化の中に7本指の根拠があるはずです。そこで律法(旧約聖書)を見てみましょう。
『出エジプト記』第25章「燭台」には次のように書かれています。
「純金で燭台を作りなさい。燭台は打ち出し作りとし、台座と支柱、萼と節と花弁は一体でなければならない。6本の支柱が左右に出るように作り、一方に3本、他方に3本付ける。……節は、支柱が対になって出ている所に1つ、その次に支柱が対になっている所に1つ、またその次に支柱が対になって出ている所に1つと、燭台の主柱から出ている6本の支柱の付け根の所に作る。……次に7個のともし皿を作り、それを上に載せて光が前方に届くようにする」。
この燭台はメノラと呼ばれているユダヤ教独特の燭台です。「7枝の燭台」とも言います。メノラは7本指の形をしています。7本指とは神に灯明を捧げる燭台の形なのです。そうすると、「7本指で〜する」という慣用句は、「敬虔な気持ちで」や「心を込めて」という意味になると考えるのが妥当です。
ところで、絵の中のシャガールの服装がおかしいと思いませんか? 制作中なのに正装しています。半生記『我が人生』には次のように書かれています。「サンドラルがやって来て、一緒に食事に連れ出してくれるだろう。私のアトリエに入る前に、彼はいつも待たなければならなかった。それは私に身支度をする時間を与えるためだ。というのも私はいつも裸で仕事をしていたから。大体私はどんな服も我慢できなかった」。
もしアトリエでのリアルな姿を描くとしたら、裸の姿を描かなければなりません。正装の姿を描いたのは別の意味があると考えます。
「エレガントな巻き毛、胸に挿した花と刺繍入りのネクタイは、おしゃれなキュビスト=未来派的なダンディないでたちをした、成功した画家のものである」(ダニエル・マルッシェッソー)という意見がありますが、これは間違いでしょう。この時期のシャガールは成功とは程遠い生活でした。「棚の上には、グレコとセザンヌの複製が、二つに切ったニシンの残りと隣り合っていた。第1日目には頭、翌日には尾っぽを食べた。ありがたいことに、パンの皮もあった」(『我が人生』)。
下のシャガール一家の写真(部分)を見てください。後列の右から二人目がシャガールです。縮れ毛で、『7本指の自画像』の中のシャガールと同じ服装をしています。それに対して、前列にいるお父さんの服装に注目してください。黒くて長いコートのようなものを着ています。カフタンという、伝統的なユダヤ人男性の正装です。つまり、シャガールは古いユダヤの伝統を離れた新世代のユダヤ人であることを服装で示しているのです。
『7本指の自画像』のシャガールは、ユダヤの古い伝統を離れた新世代のユダヤ人としてパリにやってきたが、頭の中では大切なロシアの町を思い浮かべながら、心を込めて『ロシア、ロバ、その他のものたちへ』を制作しているのです。
次に、『ロシア、ロバ、その他のものたちへ』について考えます。この作品はご覧のようにとても奇妙な光景を描いています。
あまりの奇妙さにシャガール研究者たちも当惑しているようです。評論のいくつかを紹介しましょう。
「『ロシア、ロバ、その他のものたちへ』というやや不可解な題名は、シャガールの友人のブレーズ・サンドラールがつけたものである。もっとも、題名の<ロバ>は、1912年にモスクワで開かれた<ロバの尻尾>展に参加しようと計画していたことを反映するものであろう。皮肉にも、この絵にはロバは存在せず、村の家の傾斜する屋根の上に子牛(または子羊)と子供に乳を飲ませている雌鹿の目をした牛がいるのみである」(ホロンスキー)
「この作品の皮肉な性質は、タイトルにも明らかである。この絵のタイトルは、絵の中に描かれている像と関係がないだけでなく、まったくロシアに敬意を表していることにもなっていない」(アミシャイ=マイセルズ)
「ロバなど描かれていないのに、このタイトルを冠していることも不思議である」(国府寺司)。
これらは、シャガール研究の権威とされている人たちの見解です。この作品はシャガールが7本指で(=心を込めて)描いている作品にもかかわらず、それに相応しい理解を示されたことは一度としてありません。不幸にも、「この混乱した絵」(アミシャイ=マイセルズ)という見方が定説となっています。
しかし、本当に混乱した絵なのでしょうか? 私は違うと思います。
私はこの作品の実物を福岡市美術館で開催されたシャガール展で見たことがあります。その時に細部に至るまでまじまじとこの作品に見入りました。
画面右下に教会が描かれていますが、ドーム式屋根を持っていることによって、それがロシア正教会の教会であり、描かれている場所がロシア帝国領内の地であることが分かります。そのドーム式屋根にはダビデの星が描かれています。これはシャガールがキリスト教会を描く時によくやる描き方で、キリスト教がユダヤ教から枝分かれして出てきた宗教であり、共通の聖典を持っていることを示しています。
さらに目を凝らして見ると、空の星のいくつかはダビデの星なのです。そのことは、この空の下に描かれている場所が、さらに絞り込まれて、ロシア帝国領内のユダヤ人居住地域であることを示しています。
そして、空中に飛び上がり、頭が首から飛んでいる女性は、その服装からユダヤ人女性です。この女性が着ている服には丸い斑点の模様がいくつも描かれていますが、これは孔雀の羽根の模様です。この模様はオスの孔雀の羽根に現れる模様ですが、ユダヤ文化の中では、ユダヤ人女性の美の象徴として使われています。ユダヤ人男性はライオンに象徴され、女性は孔雀として描かれるのです。
では、このユダヤ人女性の頭が体から離れて空中を飛んでいるのはなぜなのでしょうか? ほとんどの解説者は「この女性は天国の広大な広がりを焦がれている」「地上から永遠へという精神の飛翔を象徴している」と書いています。ただアミシャイ=マイセルズ氏は次のように書いています。
「頭が肩から離れて飛び上がっている乳搾りの女性は、<彼女の頭は飛んでいる>あるいは<彼女の頭は飛ばされている>というイディッシュ語の言い回しを文字通り絵画化したものである。これらの二つの言い回しは、彼女は正気を失い心が乱れている、あるいは彼女は白日夢を見ているということを意味している。この絵では、乳搾りの女性自身が白日夢を見ていると思っているに違いない。というのも、赤牛のところに乳搾りにやってきたところ、赤牛が自分の子牛に乳をやっているだけでなく、幼い人間の子供にも乳をやっているのを目にしたからである。」
アミシャイ=マイセルズ氏の指摘を読んで改めて絵を見ると、その指摘の前半「彼女は正気を失っている」は正しいと思います。しかし、ユダヤ人女性が赤牛を見て白日夢を見ていると驚いているという意見は明確に誤りです。絵の中の女性は明らかに空を見ているからです。彼女は一体空の何を見て正気を失っているのでしょうか?
私も不思議に思って色々な資料を読んでいたところ、スーザン・コンプトン氏が次のような指摘をしているのに出会いました。「幾つかの習作には乳搾りの女や牛や子牛だけでなく太陽も描かれているが、完成作品では太陽は蝕されている。おそらく、1912年にヨーロッパ中で見られた日蝕を取り入れて、太陽は黒い絵の具で塗られたのであろう」。
この指摘を読んだ時は半信半疑でしたが、絵をよく見ると正しい指摘だと納得しました。ただ、日蝕説に異議を唱えている研究者もいます。国府寺氏は次のような反論を述べています。「太陽は黒く塗りつぶされていて、よほど注意深く見ないと、もともと太陽が描かれていたことすら分からない。もし日蝕を描きたければ、それと分かるような描き方を選んだだろう。また、この絵の習作と思われる作品では太陽ははっきり描かれている。もともと日蝕を描くつもりなら、習作になぜはっきりと太陽を描いたのだろうか。このようなことを考え合わせれば、今のところ日蝕説は説得力に乏しい」。
この国府寺説は二つの重要なポイントを見逃しています。一つは、絵の中のユダヤ人女性が手に持っているバケツです。このバケツには注ぎ口が付いています。これはこのバケツが乳搾り用のバケツだということを示しています。そこで考えてみましょう。乳搾りという作業は、100年以上前のロシア帝国領内の田舎で、夜に行うことが出来たでしょうか? 夜作業を行うには屋外に電灯やライトを点けなければ出来ません。あの時代に屋外に設置できる電灯やライトなどあるはずがありません。この絵に描かれて情景の時間帯は、空は暗いですが、太陽がすでに上っている時間帯です。女性が乳搾りという労働を行おうとしていることから推測できます。
第二点目に、空の様子が明らかに普通ではありません。そこで、1912年にヨーロッパで見られた日蝕について調べる必要があります。私は名寄市にある北海道大学天文台のサイトに入って調べてみました(下図)。
1912年4月17日にヨーロッパ各地で金環日食が確かに見られています。図に引かれている実線は、日蝕が見えた場所を示しています。その当時シャガールが住んでいたパリの上を実線が通っています。シャガールは確かに日蝕を見ています。この時の金環日蝕の蝕率は0.998で、ほぼ皆既日食に近いものです。
そこで絵に描かれた空を見てみましょう。暗い空にわずかに光が見える状態です。やはりシャガールは金環日蝕を描いているのです。乳搾りの女性は、日蝕を見て驚き、茫然として正気を失っている(頭が飛んで行っている)のです。シャガールは、日蝕を見た時、「これは使える!」と思い、明るく輝いている太陽のほとんどを塗りつぶして金環日蝕を描いたのです。 ただ、シャガールは日蝕そのものを描きたかったのではなく、日蝕を見て驚く女性を描きたかったのです。なぜなら、この乳搾りの女性はある特定の女性だからです。この女性は誰か? そのことは最後に明らかになります。
では次に屋根の上にいる赤牛や人間の子供や動物について考えましょう。赤牛はユダヤ教にとって重要な意味を持つ牛です。律法(旧約聖書)の民数記19章『清めの水』には、死者や墓に触れたものを清めるための水を作る方法が書かれています。
「主の命じる教えの規定は次の通りである。イスラエルの人々に告げて、まだ背に軛を負ったことがなく、無傷で、欠陥のない赤毛の雌牛を連れて来なさい。それを祭司エルアザルに引き渡し、宿営の外に引き出して彼の前で屠る。祭司エルアザルは、指でその血を取って、それを七度、臨在の幕屋の正面に向かって振りまく。そして、彼の目の前でその雌牛を焼く。皮も肉も血も胃の中身も共に焼かねばならない。祭司は、杉の枝、ヒソプ(筆者註:植物の名前)、緋糸をとって、雌牛を焼いている火の中に投げ込む。祭司は自分の衣服を洗い、体に水を浴びた後、宿営に入ることができる。しかし、祭司は夕方まで汚れている。雌牛を焼いた者も、自分の衣服を水洗いし、体に水を浴びる。彼は夕方まで汚れている。それから、身の清い人が雌牛の灰を集め、宿営の外の清い所に置く。それは、イスラエルの人々の共同体のために罪を清める水を作るために保存される。雌牛の灰を集めた者は自分の衣服を洗う。彼は夕方まで汚れている。これは、イスラエルの人々にとっても、彼らのもとに寄留する者にとっても不変の定めである」。
赤い雌牛は清めの水を作るために必要な牛だということが分かります。しかし、神が指示した清めの水の作り方は、極めて煩雑で手間の掛かる手順を踏まなければならないものです。それゆえ、紀元70年にローマ帝国によってユダヤ人国家が滅ばされて以後、実際には清めの水を作ることは行われていませんでした。それにもかかわらず、律法に清めの水の製造手順が書かれているために、ユダヤ共同体では20世紀に至るまで赤毛の雌牛は神聖な動物として扱われて来ていたのです。
ところがシャガールのように古いユダヤの伝統を脱して画家になったユダヤ人にとっては、赤毛の雌牛は役に立たない古いユダヤの伝統の象徴だったのです。シャガールは、その役に立たない古いユダヤの伝統の象徴である赤い雌牛を屋根の上に描きました。この描き方には面白い意味が込められています。
さて今回は、なぜその赤牛が屋根の上に描かれているのか、という問題から始めましょう。
「牛を屋根の上に上げる」という慣用句がイディッシュ語にあります。これは「愚かなことをする」という意味です。ユダヤ人研究者であるアミシャイ=マイセルズ氏は、その由来は次のような小話が元になっていると述べています。
ある農夫が乳搾りをするために牛小屋にやって来ました。牛はいつもの場所にいたのですが、絞った乳を入れるバケツが屋根の上にあがっていました。そこで農夫はどうしたか? バケツを屋根から下ろすのではなく、牛を屋根の上にあげて乳を搾ったのです。
シャガールはこの小話を踏まえた上で、役に立たないユダヤの古い伝統の象徴である赤毛の雌牛を屋根の上に描いたのです。つまり、ユダヤの神聖な古い伝統の象徴を愚かな行為の象徴として描いたことになります。このような描き方の中に、ユダヤの古い伝統を抜け出して画家になった「啓蒙されたユダヤ人」シャガールの批判的ユーモアを感じます。
次に、この赤毛の雌牛から人間の子供と動物の子が乳を飲んでいる情景について考えましょう。これまでの解釈では、二つの説が出されていました。
(1)ローマ神話の中でローマの建国者として伝えられているロムルスとムレス兄弟の伝説に由来しているという説。この兄弟はオオカミに育てられたと伝えられており、シャガールが描いているこの絵の情景は、オオカミから乳を与えられているイメージに基づいていると見なしています。アミシャイ=マイセルズ氏やベンジャミン・ハルシャフ氏がこの説をとっています。ハルシャフ氏は、シャガールがロシアを第3のローマとみなして、ロムルスとレムス兄弟を描いたとも述べています。
(2)ファラオのアメンホテップ2世に乳を与えたエジプトの女神ハトホルであるという説。スーザン・コンプトン氏とホロンスキー氏がハトホル説をとっています。ホロンスキー氏は「伝説では、ハトホルは宇宙を創造し、毎朝太陽を生みだす天界の大きな牛とされる。彼女はファラオのアメンホテップ2世に乳を与えた牛として表されており、王はこの絵に見られる子供のように彼女の下に跪くのである」と述べています。
私がシャガール研究を始めたばかりの頃は、この二つの説のどちらが正しいのだろうという程度に考えていましたが、今ではこの二つの説はどちらも荒唐無稽なものに思えます。なぜなら、前回述べましたが、シャガールがこの絵で描いている場所は、ロシア帝国領内のユダヤ人居住地域だと特定できるからです。ロシア帝国領内のユダヤ人居住地域にローマの建国者やエジプトの女神が現れるはずがありません。では、赤毛の雌牛から人間の子供と動物の子が乳を飲んでいる奇妙な情景は何を意味しているのでしょうか?
そこで思い出して欲しいことは、『ロシア、ロバ、その他のものたちへ』と『7本指の自画像』は一体のものとして見なければならないということです。『7本指の自画像』でこの情景の部分を見てみましょう。
7本指の人差し指が、赤毛の雌牛から乳を飲んでいる人間の子供を指しています。この指の位置は偶然なのでしょうか? 偶然なはずがありません。人差し指が人間の子供を指すように意図的に描かれています。動物の子は、指の位置から外れるようにわざわざ少し上にあげられていて、人間の子供だけを指すように描かれているのです。シャガールがこのように描く意図、それは一つしかありません。「これは私だ!」と言っているのです。
祖父の村(母の実家)リョズノで過ごした思い出を読んで見ましょう。
「私は馬や牛やロバを祖父の村リョズノで見ました。馬や鳥たちの中にいる私は彼らの兄弟であり、泣いている息子でした。……私の遠い子供の頃の雌牛は、母が私のために乳を絞ってくれた雌牛は、私の涙が埋められているあの土地で眠っています。私の絵はあの雌牛を写したものなのです」(石版画集『サーカス』1960年)
シャガールは動物たちと兄弟のように育ったと書いています。『ロシア、ロバ、その他のものたちへ』に描かれている、赤毛の雌牛から人間と動物の子が一緒に乳を飲んでいる情景は、彼らが兄弟のように育っている様子を表しているのではないでしょうか。赤毛の雌牛から乳を飲んでいる子供はシャガール自身です。そうすると、バケツを手に持ち日食を見て驚いているユダヤ人女性が誰かということが分かります。乳搾りをしようとしている時に日食を目撃し、驚愕しているユダヤ人女性は、シャガールのお母さんです。
ここまで分かった時に、『ロシア、ロバ、その他のものたちへ』は、奇妙な作品などではなく、まったく違った作品に見えてきました。シャガールがこの作品を7本指で(=心を込めて)描いている意味がじわっと心に沁みてきます。
小さなシャガールがユダヤの古い伝統を象徴する赤毛の雌牛から乳を飲んでいる描写は、古いユダヤの文化的伝統が色濃く残る社会環境の中で、古いユダヤ文化を吸収しながら幼年期のシャガールが育ったことを示しています。
また、シャガールの母親世代のユダヤ人女性は、男性とは違って教育を受けることなく育ち、シャガールの母親も聖典の古代ヘブライ語が読めませんでした。当然自然科学的知識はほとんどなく、日食を見れば驚愕したのです。『ロシア、ロバ、その他のものたちへ』はシャガールが幼年時代を過ごした文化的生活環境を描いた作品です。アミシャイ=マイセルズ氏が言うような「混乱した絵」では決してありません。
この絵の題名の問題も考えてみましょう。定説では『ロシア、ロバ、その他のものたちへ』という題名は、絵の内容とは無関係とされています。引用してみます。
「この時期の数多くの作品と同様に『ロシア、ロバ、その他のものたちへ』というやや不可解な題名は、シャガールの友人のブレーズ・サンドラール(詩人)がつけたものである。もっとも、題名の〈ロバ〉は、1912年にモスクワで開かれたロバのしっぽ展に参加しようと計画していたことを反映するのでもあろう。皮肉にも、この絵にはロバは存在せず、村の家の傾斜する屋根の上に子牛(または子羊)と子供に乳を飲ませている雌鹿の目をした牛がいるのみである」(ホロンスキー)
「この作品の皮肉な性質は、タイトルにも明らかである。この絵のタイトルは、絵の中に描かれている像と関係ないだけでなく、まったくロシアに敬意を表していることにもなっていない」(アミシャイ=マイセルズ)
「ロバなど描かれていないのに、このタイトルを冠していることも不思議である」(圀府寺司)
これらの見解は題名と絵の内容が無関係だというものですが、これまで見てきたように、この作品にはロシアは間違いなく描かれています。また、赤毛の雌牛から乳を飲んでいる動物の子がロバでないと言える根拠はありません。描かれている動物の子の顔を見ると、その輪郭は全体に丸みを帯びており、形態的は口先が細い牛の子よりもロバの子の顔に近く、私はロバの子だと判断しています。
そしてさらに、「その他のものたち」ももちろん描かれています。題名『ロシア、ロバ、その他のものたちへ』の前置詞「へ」に注目してください。(ロシア語ではк+与格、英語ではto?です)。この前置詞「へ」がなぜ付けられているのかという問題を、題名・内容無関係論者は考えたことがないか、理解できなかったのでしょう。赤毛の雌牛から一緒に乳を飲んでいる人間の子供と動物の子をローマの建国者ロムルスとレムス兄弟と考えたり、赤毛の雌牛をエジプトの女神ハトホルと見なしている人たちには到底理解不能だと思います。彼らには『7本指の自画像』と『ロシア、ロバ、その他のものたちへ』を一体の作品として考察する視点が完全に欠落しています。『ロシア、ロバ、その他のものたちへ』は、シャガールが7本指で、つまり、愛を込め心を込めて描いたものです。この前置詞「へ」にシャガールのすべての気持ちが注がれています。
シャガールは本当に面白い画家です。満腔の愛を注いで自分のお母さんの首をちょん切って、忘れることができないその姿を美術史上に残したのです。そのような画家を私は他に知りません。
今回はここまでにしておきましょう。
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