フローレス版『雨の慕情』
青木恵理子
インドネシア東南部にあるフローレス島。わたしは、そこに1979年から1984年の間に述べ三年間くらした。その後、子育て期間と新型コロナウイルスの世界的な感染拡大期を除き、毎年一カ月弱をそこで過ごしてきた。
目的は文化人類学のフィールドワーク。それは、わたしたちとは言葉も振る舞いも価値観も異なる人々と生活をともにすることにより、その生活を、わたしたちのような外の人たちにも理解できるように、内側から描き出すための基盤となる。内と外を行き来しながらなされる理解の仕方が身につくと、今度は、距離を置いて自分たち自身のくらしをみることができるようになり、わたしたちのくらしの仕組みが見えてくる。内と外が逆転してしまうような螺旋運動として理解がなされていく。だから、わたしたちの生活や考え方を基準に「そこの人たちは、こんなに異なる生活をしてますよ」と伝えて、珍しさの消費を促してしまっては、元も子もない。逆に、異なる生活を理解することなく、「人間どこでも同じ!」と早々納得してもらうと、理解の螺旋運動が始まらない。
人々の生活は、言語、文化、歴史などによってそれぞれ異なるが、深いところで通底しており、その仕組みを様々な理論と格闘しながら示していくのが、文化人類学の目指すところだ。その基盤であるフィールドワークという営みのなかで、現地のくらしはわたしの研究の対象である。と同時に、わたしは現地のくらしに身をゆだねているので、現地のくらしにとってわたしは巻き込みの対象となる。
フローレス島のなかでも、わたしが最も長期間くらしてきたのは、中央山岳地帯にあるズパドリ村だ。山岳地帯といっても、ズパドリ村は海岸地域から4キロメートルぐらいしか離れていない。それでも、ズパドリ村民は、自他ともに認める「山の人ata ndu’a」だ。「山の人」と対をなすのは「海岸の人ata ma’u」。1979年から1984年の期間、「海岸の人」が漁労と絣織を生業としていたのに対し、「山の人」は焼き畑耕作を生業としていた。また、近隣の「山の人」達を巻き込んで、姻戚間の盛大な贈り物の応酬とそのたびごとに宴会をするという暮らしぶりも、「海岸の人」達にはみられない、「山の人」達の特徴であり、今でもそれは変わっていない。
広い屋根が見えているのがドンダさんとパマさんの家。姻戚間の贈り物が運び出されるところ。(1980年)
花嫁側からの贈り物の衣類の点検をしている女たち。(1980年)
花嫁側からの贈り物である茣蓙、枕、衣類、バナナ、米を運ぶ女達。子どもたちもお手伝い。(1980年)
婚資(花婿側からの贈り物)の話し合いのために席に着く男たち。(1980年)
姻戚間の贈り物のやり取りに同行した花婿側の親族。花嫁側は、大勢の客を迎えるために家の前に特別の場所を確保し臨時の屋根を造る。(1980年)
1979年8月に初めてズパドリを訪れた時のことは鮮明に覚えている。当時、その地域で自動車の通れる道は、海岸部にしかなく、そこで自動車を降り、細い山路をズパドリへと登っていった。ズパドリ出身で町に住んでいた男性、フーさんが道案内をしてくれた。
細い山路には、日差しを遮る木一本なく、赤道直下の太陽が肌を焼いた。石灰質の山肌は白く、太陽を反射して下からも身体が焼かれた。乾燥した路は、砕けた石灰石で滑りやすかった。喘ぎながら3キロメートルほど歩いた頃、ようやく木立が現れ、路に陰を落としてくれた。路は尾根を辿るように開かれており、谷へとつながる両側の斜面には焼き畑が作られていた。さらに歩くと、鶏の鳴く声が聞こえ、やがて、穏やかな村が姿を顕わした。犬が吠え、豚が鼻を鳴らし、赤ん坊が元気に泣き、暮らしの活気が耳から入ってきた。日本の昔話にある隠れ里に行き当たったような不思議な感慨が押し寄せた。森を拓いて村を創るとはこういうことなのか、と分けもなく納得し、人類の秘密が解かれる瞬間に立ち会ったような気がして、疲れが退いていった。
わたしたち夫婦は、フーさんの両親の家へ招かれ、丁重なもてなしを受けた。彼の両親、ドンダさんとパマさんこそが、村人としては全く未熟な20代のわたしたちを包容し、何くれとなく保護を与えてくれる「お父さん」と「お母さん」になっていくのだが、その時はまだ知る由もなかった。
家のなかで寛ぐドンダさん(1980年当時)
花婿側から象牙を受け取り誇らしげに抱えるパマさん。(1980年)
象牙は、花婿側からの贈り物のうち最も権威のある贈り物である。
ズパドリでは様々な機会に人々が集うが、ドンダさんはズパドリ村の取りまとめ役を果たすような人だったので、彼の家が集いの場になることも多かった。1980年のことだった。多くの人がそこに集まって、トランプ遊びに打ち興じたり、周りで囃し立てたり、おしゃべりに熱中したりしていた。その笑いさざめきのなかで、わたしは短波ラジオに齧りついて、とぎれとぎれに聞こえてくる八代亜紀の『雨の慕情』に聞き入っていた。わたしの様子に興味をもったドンダさんに、『雨の慕情』のすばらしさを、まずは以下のような歌詞を村の言葉(エンデ語)に意訳して、伝えることにした。
心が忘れたあの人も 一人でおぼえた手料理を
膝が重さを覚えてる なぜか味見がさせたくて
長い月日の膝まくら すきまだらけのテーブルを
煙草プカリとふかしてた 皿でうずめている私
にくい 恋しい にくい 恋しい きらい 逢いたい きらい 逢いたい
めぐりめぐって 今は恋しい くもり空なら いつも逢いたい
雨々ふれふれ もっとふれ 雨々ふれふれ もっとふれ
私のいい人つれて来い 私のいい人つれて来い
(繰り返し) (繰り返し)
「これは日本でとっても流行ってる歌です。あるところに女の人がいるんですね。その人には恋人がいて、かつてはとても仲よくしていたのに、今は逢いに来てくれないんで、女の人はとても悲しいわけです。女の人は恋人のために、料理を作っていっぱい並べて待っているんです。雨が降ればきっと恋人がやってきてくれると思い、雨よもっともっと降れー、と歌っているんです。」
わたしの拙い説明に、ドンダさんは膝を打つように言った。「人間はどこでもおんなじなんだねえ。」それを聞いてわたしは、ドンダさんが歌のすばらしさを理解してくれたと思い、とても嬉しかった。ドンダさんは続けた。「雨が降れば豊作になる。稲が実り、沢山収穫ができる。そうすれば、結婚の際の贈り物のやりとりも順調にいくので、恋人も頻繁に逢いに来てくれるようになる。贈り物のやり取りがある程度終われば、恋人といっしょに暮らせるようになるものね。」
わたしのぬか喜びは瞬く間に消え、拙い説明をあれこれ無駄に上塗することになった。「人間はどこでも同じ」という感慨とともに、大きな「異文化誤解」が起きたのはなぜか。
ズパドリの人たちの生活にとって、焼き畑耕作は決定的に重要だった。それなくして生きていくことはできなかった。焼き畑は一年に一回の収穫しか得られない。8月から9月に森の木を伐り、乾燥させ、9月から10月に火入れをし、雨期の到来を待って、米、トウモロコシ、稗、粟、豆、キュウリなどの種を撒いた。山がちで乾燥の激しいフローレス、とくにズパドリ地域では、雨期の到来は歓喜とともに迎えられる。11月頃、最初の激しい雨が地面をたたくと、子供たちは「大雨!もっと降れー!」と歓声をあげて外に飛び出した。
焼き畑耕作には、彼らの社会生活やモラルの核ともいえる姻戚間の贈り物のやり取りにとって不可欠である米の収穫もかかっていた。米は宴会の際に大量に振舞われるだけでなく、花嫁側の親族から花婿側の親族に贈られる最も重要な贈り物だ。現在では、換金作物の栽培やマレーシアへの出稼ぎで現金収入も増え、姻戚間の贈り物のやり取りのために米を購入することが一般化したが、1980年当時焼き畑耕作の成功なくしては米を準備することができなかった。たしかに、恋人のいる女性にとっては、稲の豊作は切実であり、雨は豊作だけではなく恋人の到来の条件であり吉兆であった。
あれから半世紀近い時が流れ、ズパドリの若者の多くが、スマホを愛用し、土地の言葉、インドネシア語、英語などで歌われる、個人の感情を吐露するラヴソングを日常的に聞くようになっている。彼らに『雨の慕情』を意訳する機会は未だにないが、もし機会があったとしても、ドンダさんのような素晴らしい「異文化誤解」をする人はいないように思われる。その一方で、姻戚間の盛大なやり取りが重要であることは変わっていない。ズパドリ村では何がどう変わり、何が保たれているのか。それが、古希を迎えたわたしが現在取り組んでいる課題である。
ウェティしながらく家で寛ぐパマさん(1980年当時)
ウェティは、檳榔(ヤシ科の植物)の実とキンマ(胡椒科の植物)の実又は葉と石灰を一緒に噛むことによって清涼効果を得る習慣的行為。来客があると、まず、ウェティできるよう檳榔とキンマと石灰をさし出す。
前回の記事(2024.1.15)はこちら。
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