片山ふえ
ウクライナ侵攻が始まって2年がたった今年の2月、私はあるビデオを発信しました。題して「ウクライナの芸術家たちは今……」
https://youtu.be/jtLJdGYgLg4
もうご覧くださった方、ありがとうございます。
まだの方は、ぜひここでご覧ください。今回はこのビデオにまつわる話を……。 “「ウクライナの芸術家たちは今……」” の続きを読む
「大きな木の家を作って、みんなで語り合いましょう」、そう夢見たピロスマニに心を寄せて
片山ふえ
ウクライナ侵攻が始まって2年がたった今年の2月、私はあるビデオを発信しました。題して「ウクライナの芸術家たちは今……」
https://youtu.be/jtLJdGYgLg4
もうご覧くださった方、ありがとうございます。
まだの方は、ぜひここでご覧ください。今回はこのビデオにまつわる話を……。 “「ウクライナの芸術家たちは今……」” の続きを読む
マルク・シャガール
「私の人生」 両親、妻、故郷の町へ
前号で角さんが説明されましたように、従来の訳より原文に忠実な底本を使った意欲的な新訳です。(編集部)
「We Love 遊」の連載で長年ご好評をいただいた小西すずが、「大きな木の家」にもやってきました!(編集部)
「丹波歌人」のこと 小西 すず
はじめに
京都府の北西部、由良川流域に拓けた福知山市は、人口7万人余、明智光秀によって築かれた城下町です。
古来より「丹波」と呼ばれてきたこの地に永年にわたって発刊され続けている「丹波歌人」という歌誌があります。 “「丹波歌人」のこと ” の続きを読む
ミルチャ アントン
ロシア語の原文は日本語訳の後にあります。
今年もいよいよ夏がやって来た。また暑くなるから、それに備える心構えを始めた。必要なのは、体調をととのえて、ついでに何キロか減らすこと。そう、ダイエットをするんだ。
そして、いつものことだが、明日からランニングを始めてカロリー制限もしようと決心すると、そんなときに限って、寝る前に美味しそうなケーキがいろいろ頭に浮かんでくる! “ケーキの想い出いろいろ” の続きを読む
桑山ひろ子
~生まれ育った滋賀県や、現在住んでいる岡山県の伝承を訪ねてみました~
「むかしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。」と聞くと、なんの話をおもいうかべるだろう。
ほとんどの人が、そらで「ある日、おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯にでかけました。おばあさんが川で洗濯をしていると、向こうのほうから大きな桃が~」と続けていけるのではないだろうか。その話をしてくれた人の声や部屋の中の明暗、においなどを思い出しながら。
今、機械や機械音に囲まれ、ほとんど声を発しなくても生活が完結する世の中だからこそ、子どもたちにこのような口承文芸を残してやりたいと思う。 “2)桃太郎伝説” の続きを読む
シベリア鉄道での出会い
畔上 明
格安航空券という渡航手段が出回る以前の1970年代、ヨーロッパに向かう若者たちにとってはナホトカ航路で大陸に渡りその先ソ連国内を通過するというのは一般的な旅行ルートでした。
横浜港からの2泊3日の航海を共にした300名の船客の大半は、ソ連国内の航空運賃が安価なことからハバーロフスクからモスクワ迄は空路を利用します。しかし、ほぼ同じ料金であっても8,500キロの大地を一週間かけてじっくり這うように移動したいと望む十数人がシベリア鉄道の客となるのでした。 “「ユーラシア放浪」2” の続きを読む
片山ふえ
お待たせいたしました。
皆さまとご一緒に「大きな木の家」の扉を開けたいと思います。
まずは、この「ふえと大きな木の家」というネーミングにこめた想いを聞いてくださいますか。 “大きな木の家を建てました!” の続きを読む
シャガールの自伝「私の人生」はすでに邦訳が2点ありますが、実はこれらの訳には不明瞭な点がいろいろあります。「We Love 遊」誌上でシャガールの画の画期的な解釈を披露して大きな反響を呼んだ角伸明氏は、従来の不明瞭な点を明らかにするために、今「私の人生」を新たに翻訳中です。なぜ、新しい翻訳が必要なのか――角さんの説明をお聞きください。 (片山ふえ)
尚、「We Love 遊」の記事の一部を、「リバイバル」の項に載せていますので、そちらもぜひご覧ください。
畔上 明
若き日の揺れ動く心をかかえて横浜を出たのは1976年3月26日のこと。9ヶ月の長きにわたった私の放浪の旅の始まりでした。ナホトカ航路からシベリア鉄道の道中では日本人旅行者との出会いと別れがありましたが、モスクワから先はいよいよ日本人一人旅です。
濱口 十四郎
子供の頃の私にとっては、水屋の上に置いてあるラジオがなによりの娯楽だった。遊び疲れて帰ってくると流行り歌がながれていて、夕飯の支度をしながら母がそれに合わせて、素っ頓狂な声を張り上げている。私は逃げるように戸外の風呂場に飛び込んで、『母のブギウギ』をやりすごす。そして囲炉裏を囲んでの食事になると、ラジオから先ほどまでの流行り歌を諭すように「トクトミロカ サク『ミミズノ タワゴト』・・・」と、落ち着いた声(いま思うと徳川夢声か・・・)が聞こえて来た。
1979年8月、わたしは、フローレス島にはじめて降り立った。フローレスは、インドネシア南東部にある、四国より少し小さい島である。同行者は、1978年に学生結婚した夫。ともに文化人類学研究者の卵。すくなくとも何かの卵だった。双方の両親の意向に便乗して結婚式と披露宴はそれなりに豪華だったが、新婚旅行はなし。アルバイトと奨学金暮らしという経済的理由も多少あるが、「愛のくらしに、新婚旅行は必要ないわ」という、理想に燃えた――鼻息荒い――「卵」特有の理由もあった。1979年から約2年に渡るフローレス島でのフィールドワークは、文化人類学研究者をめざす卵たちにふさわしい、ながーい新婚旅行でもあった。