「百」という数には、なにかこう、99までとは違った重みがありますね。「百人力」とか「百戦錬磨」と言えば力強いし、「百薬の長」といえばいかにも身体によさそうだし(笑)、「名を百代に残す」のはなかなか出来ることではありません。(もっとも、最近はちょくちょく「百条委員会」なんていうのも耳にしますが……。)
なぜこんなことを書くかと言えば、「ムーザサロン」が先日めでたく百回目を迎えたからです。
我が家で定期的に催している「ムーザサロン」がスタートしたのは2001年。その少し前に、古くてガタガタだった木造家屋を大改築して「大きな木の家」が生まれ、我が家に広間が出来ました。これがそもそもの始まりです。
どうして「サロン」を開こうと考えたのか、なにしろ四半世紀ほど前のことなので記憶は曖昧ですが、「人が自由に集まれる風通しのよい場・サロン」への憧れを私は昔から持っていたように思います。
子供のころから「群れる」こと、つまりいつも同じ顔ぶれだけが連れだって行動することには閉塞感がありました。空気が淀む気がしたのです。
それで、大学時代も一匹狼を気取っていましたが、人間は独りではダメだ、そう思ったのは、お粗末な学生運動に辟易して、狭い下宿に閉じこもり、若者特有の「いかに生きるか」を模索する読書にふけった挙げ句、すっかり煮詰まってしまったからでした。
それを打開するために思いついたのが、週に一度(土曜日の夜)、誰でも自由に参加できる議論の場をつくることです。
なんと、四畳半の下宿を「サロン」と名付け
人を呼ぶ「エサ」にカレーをお鍋いっぱい用意して!
(そこに集まった若者たちの中に、今や世界的なアーティストとなったイケムラレイコさんがいて、このサロンを懐かしんでいたことを、「We Love 遊」84号に書いたことがあります)。
そんな経験があったので、我が家に広々とした場所が出来たときに、サロンへの憧れが再燃したのでしょうか。
1回目は「ロシアはおいしい」と題し、簡単なロシア料理を食べながら、若いロシア語講師を囲んで、気ままに話し合う会でした。カレーライスが、30余年たって少し進化した、という感じでした。
「ムーザサロン」がその趣をガラリと変えたのは、2003年5月の第3回目。「チェリストがミニ・コンサートを開く場所を探しているのだけど、ふえさんの広間はどうかしら?」と友人の容子さんから話があったのがきっかけでした。
そのチェリストは、今は亡きジョージアの名手ギア・ケオシヴィリさん。あの日の驚きと感動は今でもはっきり覚えています。なにしろ演奏家と観客の距離がとても近いので、深々とした美しいチェロの音色がビンビンと身体に伝わるのです。それは身体全体が音楽にすっぽりと包まれているような、まるで「音楽浴」とでも言うような心地よい時間でした。
この至福の体感が、「ムーザサロン」をコンサートの場へと変えました。ギアさんの話を持ってきた容子さんも、すっかりサロンコンサートが気に入って仲間になりました。彼女は英・仏語を操って京都の文化を外国の旅行者に紹介しているベテランです。そしてもう一人、私の子育ての始めの時期から、辛いことも愉しいことも分かち合ってきた盟友のせいさん(拙著『オリガと巨匠たち』に登場するSさん)も加わり、「ムーザの三人(元)娘」(笑)体制が出来たのです。
今まで、コンサートに来てくださった方にもスタッフをちゃんとご紹介したことがないので、この場を借りてご紹介させてください。


もう一人、ムーザには心強い助っ人がいます。ピアノ調律師の優子さん。彼女のおかげで長年眠っていたピアノが息を吹き返した「あるピアノの話」(「We Love遊」96号のリバイバル)は、こちらです。https://x.gd/EMY6G
さてここで、ムーザサロンは今までにどんな企画をしてきたのかを覗いてみてはくださいませんか?
私のブログ「ムーザの小部屋」に書いてきた一連の記録です。
100回分なので、なかなか壮観なのですよ!
https://x.gd/ij3gV
「ハイレベルの演奏家ばかりを、次々に、どうして呼んでこられるのですか?」とよく驚かれるのですが、これには「ムーザ(ミューズ)の女神のご加護です」とお答えするしかありません。たくさんの方に守られ、引き立てていただいて、様々なジャンルの素敵な演奏家の方々とご縁をつないでこられたのは、本当に幸運なことでした。
演目はほとんどが音楽の分野ですが、変わり種もありました。
たとえば「ドストエフスキー氏を囲む夕べ」(2004)。
何より、このタイトルに誰もがびっくり!
実はこの方、ロシア文学界の巨人フョードル・ドストエフスキーの唯一の曾孫さん。文豪の子孫のたどった運命について、語りました。

そしてこのドミトリーさんのおかげで、私は彼の親友の画家ガガ・コヴェンチュークさん(通称ガガさん)と知り合うことができたのす。私にとっては大恩人。その後ペテルブルクで何度かお会いしましたが、昨年その訃報を知りました……。Царство ему небесное!
最後にもうひとつ、大切な思い出話をさせてください。
浄土宗のお坊さんたちによる「聲明(しょうみょう)」のことです。
実は、一度だけなかなか演奏者が見つからないことがありました。そのときの企画会議で、せいさんが「息子が仲間とやっている聲明、案外良いんだけど……」と遠慮がちに提案したのです。(彼女の家はお寺なので)。「ショウミョウって、あのお経みたいな……?」と不信心者の私はよくわからないまま、「案外良い」というせいさんの言葉を頼りに、「まぁ、たまにはこういうのもありかな、チケット代を安くすれば……」と「聲明公演」を決めました。

ところが……これが「案外良い」どころか、素晴らしかったのです!
その朗々と力強い声にこもった祈りの心は、既成の宗教に不信感をもっている私にも素直に届きました。そして、お客様も皆その感動を口にされたのです。
例えていえば、二軍から来たピンチヒッターが、大ホームランを打ったみたいなもの!
こうして、聲明グループ「梵唄会(ぼんばいえ)」は、ムーザの一軍の主力選手となったのです。
好評に応えて翌2014年に再演したとき、客席にいたロシアの文学者から思いがけない提案が出ました。「これは素晴らしい! この深い精神性は日本文化を愛するロシアの文化人たちに絶対よろこばれます! ロシアで公演してくれませんか?」
確かに、ロシアには、たいがいの日本人より日本文化に詳しい知識人がたくさんいることを私は経験から知っています。
この提案をしたセルゲイ・デニセンコ博士は(私たちは愛称で「セリョージャ」と読んでいますが)ロシア科学アカデミー付属「ロシア文学研究所 Пушкийский дом」の上級研究員。栄えある研究所で、様々なイベントの企画もしています。彼の思いつきは、たちまち現実味を帯びてきました。
そして2015年5月、9人の僧と私たち3人がロシアの古都ペテルブルクに出かる準備を始めたときに「エルミタージュ美術館でも公演することになった!」という驚きの知らせが飛び込んできました。これは友人で同美術館の学芸員アンナさんが働きかけてくださったおかげでした。
ペテルブルクの4会場での公演は、どれも大成功でした!
壮麗極まりないエルミタージュでの公演では、若い僧たちが「興奮のあまり声がつまりそうだった」と言いながら見事なアンサンブルを披露し、TVニュースでも紹介されて、テレビ局に「次の公演はいつですか?」という問い合わせが相次いだとか……


波に乗った梵唄絵は、翌年ドイツでも3カ所(ビュルツブルクの「シーボルト記念館」など)で公演して大好評。私たち「ムーザの3人(元)娘」はステージママよろしく彼らに付いてまわったのでした。

この梵唄絵が、今年2025年6月22日(日)に再びムーザサロンに登場します。
ペテルブルクの旅からすでに10年。「若僧」だった彼らも、今はそれぞれの寺を背負って立つ立派な住職たちです。
成長した彼らがどんな聲明を聞かせてくれるか、今から楽しみでなりません。