「ユーラシア放浪」4ハンガリー

ハンガリーの友人たちの思い出               
畔上 明

日本を離れて6週目となる1976年4月30日、ハンガリーに入国しました。
ハンガリーは、9世紀にウラル語族の遊牧民マジャル人が東欧スラヴ圏中央部の平原に割込むように移り住んで成立した国。現在の国土は日本の4分の1という小国ながらヨーロッパの臍ともいえる場所を占めています。

正式にはマジャル国と称し、ハンガリーとは自国では呼んでいません。俗説として、ゲルマン民族大移動の引き金となったアジア系フン族がルーツであるからハンガリーと呼ばれているのだとも言われています。

ドイツ人作曲家ブラームスの「ハンガリー舞曲」やネッケ「クシコス(ハンガリー語のチコーシ)・ポスト」、ハンガリー人であるリストの「ハンガリー狂詩曲」、ドップラー「ハンガリー田園幻想曲」、レハール「メリー・ウィドウ」、或いはコダーイやバルトークによる民族音楽によってハンガリーをイメージすることが出来るかもしれません。

私にとっては、子供だった時に観たミュージカル映画「回転木馬」の原作がハンガリーの作家モルナール・フェレンツ(1878-1952)の「リリオム」であると知り、岩波文庫で読み心惹かれました。大学時代にその翻訳者である徳永康元(1912-2003)先生の講座を受けたことから、なお一層ハンガリーに関心を持ったともいえます。

ソ連からポーランド、チェコスロヴァキアと主にスラヴ人の国々をうろついていた旅ガラスにとっては、人懐っこいハンガリー人と接してホッとする思いでした。

少し前に訪れたポーランドのユースホステルでは、様々な個性豊かなハンガリー人と知り合い、我が国に来たらまた会おうではないか、と親しみを込めて言ってくれた青年たちがいました。
彼らの言葉を胸に、首都ブダペストのケレティ(東)駅に到着したときには、初めて訪れるとは思えぬ安心感がありました。ブダペストの中心部には北から南へとドナウ川が流れ、その東側は下町のペスト地区、西側は丘陵が続くブダ地区と分かれています。人口170万人、ヨーロッパの中では11番目の大きさ、東欧(中欧)では最大の都会であり、「ドナウの真珠」と称えられている美しい街ブダペスト。

予めブダの森の中の「オリンピア」ホテルを予約していました。格安ホテルながら、バスタブ付きでこざっぱりとした気持ちの良い印象でしたが、現在調べてみると21世紀初頭には跡形もなくなってしまっています。中心街からはかなり離れた丘の上に建つホテルで、周辺の木々の美しさ、夜はきれいな星空を楽しむことが出来ました。

ポーランドのクラクフの街で復活祭のミサ参列に誘ってくれたヨシェフは、ブダペストの学生寮(コレギウム)にいました。彼の部屋を訪れれば、早速に映画談義、映画クラブを主宰しているとのことで、その日のプログラムであるエリア・カザン監督「欲望という名の電車」をホールの映写機で映し、仲間たちと一緒に鑑賞したのでした。

やはりクラクフのユースホステルで知り合ったウジヴァーリ・フェレンツ、愛称フランキーは愛想がよく、あたかもハンガリー版寅さんとでもいった馴れ馴れしさ。It is not problem. / Why (I would invite you …)- Because (we might become good international friends …)  / What is question, (I can travel only Eastern Europe …)といった言い回しをまくしたてMoment, Momentを連発する癖のある英語もご愛敬でした。ポーランドへの旅行中も、ハンガリー産サラミを自慢し、背負っていた荷物の中から取出した太くて長い一本を差出し、美味しいから食べてみろと分け与えてくれたものです。ハンガリーに来たら必ず家に来てくれとやや強引ながらも親しみのこもった愉快な誘いを受けて再会約束をしました。フランキーは私よりひとつ若い24歳、トラック運転手としてブダペスト市内でペプシやオレンジジュース等の運搬を生業としているということです。

フランキー

繁華街アンドラーシ通りの地下に1896年に開通したメトロ1号、そのオペラ駅から北西に900m歩いたダウン・タウンのバートリ通りにフランキーのアパートがあります。夜6時に立寄ってみたところ、中庭から入った玄関ドアにTo Akira と記された置手紙が貼り付けてありました。「いつ来るかと日々待ち構えている。もしも留守だったら夜7時以降に来てくれ」と英語で記されていました。近所を見回りしていた警官が話し相手となってくれ、7時を回った頃合に再びアパートを訪れたところ、フランキーが台所に立って鍋の底のおこげをさらっていました。慌てて食事を終えた彼曰く「実は母が病院で手術を受けたところなのだ、来週の月曜日に退院予定で、その前日の日曜日にゆっくり過ごせるだろうから、5月2日朝7時半にデリ(南)駅で落合おう」という話になりました。フランキーは母親との二人暮らし、父親についてはとても悪い人間だ、のひと言で多くを語りません。

5月1日はメーデー。ラコッツィ通りからヴァーツィ通り、共和国通り、ヴェレシュマルティ広場、そして至るところで見かける公園も人の群れで賑わい、風船を持ち歩く陽気な人々、無心な子供たち、犬の散歩。縁日の様な楽しげな店、トルテを味わうカフェのテラス、学生交響楽団の演奏、路上絵画展と飽くことがありません。

フランキーとの待合せの5月2日には早起きしてホテルを出たものの、バスの路線を間違えて遠回りしてしまい、南駅に到着したのは約束の時間よりも1時間以上も遅い8時40分。ドキドキしながら走っていくと、フランキーは苦笑いしながら「あわてなさんな」と出迎えてくれたのでした。

駅近くのスーパーマーケットに入り、袋に入ったミルクを2つ、パンにベーコン、玉ネギ、パプリカ、チーズのペーストの買物、レジを終えるとフランキーはバッグに詰めて肩に掛け、ドナウ川の岸辺を歩き始めました。ブダペストで最も美しい景観、背後の王宮の丘の中のマーチャーシ聖堂とブダ城、漁夫の砦、ドナウに架かる吊り橋のセーチェーニ鎖橋、対岸の国会議事堂のネオ・ゴシック建築などをうっとりと眺めながら、マルギット橋に辿り着きます。

セーチェーニ鎖橋

ここでドナウ川を渡り、橋の途中で川の中央を北に伸びるマルギット島に降りました。小さな動物園があり、中を散策するとJapanと書かれた表札、何かと思ってその柵を覗いてみるとニワトリの姿がありました。

余談になりますが、何故ニワトリが日本なのか、その時以来ずっと長いこと不思議に思っていました。現在はパソコンを使ってハンガリー語から意味を探っていく手段もある為、半世紀昔の疑問を調べてみました。日本とニワトリを関連付けた内容で最も多いのが、昨今のハンガリーでは日本の唐揚げが大人気とのこと。まさか、当時の動物園がそんな理由から表札に記したとも思えず、さらに調べると、ありました。日本ではニワトリは単に食料として飼っていたのではなく、尾の長い美しい鶏は、観賞用でもあったのだというハンガリー語の解説でした。

閑話休題。
国会議事堂へと回ってみた時には、閲兵式が行われていて楽隊がラコッツィ行進曲を演奏、フランス人ベルリオーズの作曲ながらまさにこの国を象徴する曲を聞いて、ハンガリーへやって来たのだなとしみじみ実感したのでした。

フランキーとの話の中で、日本には徴兵制がないと伝えたことに対して、驚き不思議がられたりもしました。

ブダのゲレールトの丘で、バッグに入れておいたパンにパプリカや玉ネギ、ベーコンを挟んでの昼食、丘のふもとの公園でロック・コンサートが開催されるからと、午後のひと時を芝生に腰を下ろして東欧ロックに耳を傾けることとなりました。若者でごった返す広場に、フランキーお薦めの「ミニ」というグループが登場して欧米のロックよりも穏やかな曲を奏で、続いて「ロコモーティヴ GT」は龍の描かれたキモノ姿でエレキギターを演奏。

フランキーのアパートに帰り着く頃には、ブダの丘の向こうに夕陽が落ちる黄昏れどき、ドナウ川周辺の景色は茜色に輝き、「ドナウの薔薇」とも称されることに十分納得がいきました。

フランキーとはその後数年間にわたって幾度か手紙のやりとりがありました。病気恢復後の母親が元気になったと思ったら、また体調を崩してしまったこと、いつかロンドンへも旅行したいと思いながらなかなか果たせぬこと、ハンガリー動乱から20年以上経っているとはいえ、社会主義国ならではの旅行制限があるといった不満も伝えてきたのでした。
10年後の1986年に再びブダペストを訪れる機会があり、出張の合間にフランキーのアパートを訪ねてみました。不在であったため、隣室の方に手紙を託したまま、その時は再会に至りませんでした。ところが、その翌年、シドニーからフランキーが手紙を送ってきたのです。Akiraからの手紙は隣人から受け取ったよ、ハンガリーでの生活に満足が出来ない、亡命してオーストラリアに来て何とか馴染み始めつつある、という内容でした。

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1989年ベルリンの壁が崩壊すると共に東西冷戦終結、東欧革命と言われる東側諸国共産党一党独裁から政治体制が大きく変化しました。私はそのタイミングで北欧の現地ツアー手配会社「ツムラーレ」デンマーク本社を訪れツアー・オペレーターとしての業務を開始。東欧地域の現地手配窓口を東京支店で始動、JTB、近畿日本ツーリストを始めとする大小100以上もの旅行会社に向けての販売促進を進めていきました。その間、新生ハンガリーには4度訪れることとなったのです。

とりわけ1998年の旅行会社向け研修ツアーではハンガリーから吸収して得たものは強烈でした。ブダペスト市内のみならず、西のオーストリアに接する国境の町ショプロンから東部のエゲルまでの間の多くの魅力ある観光地を、現地ガイドのミシュコルツィ・エルジェーベト・クリスティナ、愛称エリザベートさんが表現力豊かな日本語で案内してくれたからです。

エゲル

彼女の解説で最も深く心に残っているのはハンガリー・ユーゲント様式の建築が美しいケチケメート市にある「コダーイ音楽教育研究所」。ハンガリーを代表する作曲家の一人コダーイ・ゾルターン(1882-1967)は幼児期からの音楽教育に熱心でした。わらべうたを歌って覚えてもらうときに、手話のように音階ごとに手の動きを変えるというジェスチャーをする、則ち体で覚えるという訳です。その仕草を彼女が美しい声で歌いながら手本を示してくれました。興味を持って皆もバスの中で日本の童謡を歌いながらコダーイ・メソッドの手のひら体操をしたことは楽しい思い出となったのです。

ケチケメート
コダーイ音楽教育研究所

そしてまた、1987年にブダペストの市中心部と同時にユネスコの世界文化遺産に登録されたホロッケー村、ここでは少数民族パロツ人の生活ぶりを見学しました。

ホロッケー村

さらに、シシィと呼ばれたエリザーベト皇紀がオーストリア=ハンガリー時代にこよなく愛したゲデレーグラシャルコーヴィチ宮殿。1996年に世界遺産登録となったパンノンハルマの千年の歴史をもつベネディクト会大修道院。ハイドンが宮廷音楽家として30年以上も暮らしたフェルテードエステルハージー宮殿ヘレンド陶磁器工房。水深38mヘ-ヴィース温泉湖に皆で入り足をぶらぶらさせながら湯のぬくもりに浸ったこと。バラトン湖。果てしなく続くパプリカ畑と鮮やかな草花模様の刺繡で名高いカロチャ。ハンガリー大平原のブガツ・プスタでは野性的な馬術ショーを見学。そして、エゲル城とワインセラーが軒並み続く美女の谷でエリザベートさんのガイドとしての案内が終わりました。

ブガク・プスタの馬術ショー

ミシュコルツ大学で日本語を勉強したというエリザベートさん、20代半ばながらも力ある見事な話術で、日本を訪れるのが夢であると語っていました。ハンガリー周遊を終えてから3年間手紙のやり取りをし、日本語の資料や小説を送ればしっかりと読み込んだ様子の覗える礼状が届きます。
最初の頃はハンガリーの観光事情やお薦めの食事、1999年に入ると隣国ユーゴスラヴィアでの戦争を懸念する手紙、そして入院の知らせ、健康食品、化学療法、骨髄移植の予定などが記され、白血病であることを伝えてきたのでした。

エリザベートさん

2000年春先の便り「秋には2ヶ月ほど歩くどころか、座ることさえできませんでした。ほとんど食べなかったため、10キロくらい痩せてしまいました。その後に聞きましたが、肝臓が悪すぎて死ぬはずだったそうです。『あなたは意志が強かったため生きぬけたよ』と言われました。長い間動けない状態でしたので、筋肉も落ちてしまいました。ですから最近、前よりも体の具合がよくて、毎日外に出るようにしています。力をつけるためなのです。頭でわからなければ病気というのを忘れてしまいそうになることさえあります。久々に自然に笑えるようになりました!! 病院にいた自分と今ここにいる自分とはまるで別人のように感じられ、奇跡のようです。… 木から落ちて少しずつ登っていく自分を見て嬉しく感じずにはいられないのです …」これがエリザベートさんからの最後の手紙となりました。30歳を迎える前に天上の人となってしまったのでした。

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この時のハンガリー研修ツアーでは、エルデシュ・ジェルジ(1944-2010)氏とも親交を深めました。

ツムラーレ・ブダペスト・オフィス設立と同じ時期に、ハンガリー政府観光局が東京に開設されその初代局長に就任したのが当時44歳のエルデシュ氏でした。私の計画したハンガリー周遊ツアーに同行して頂くこととなり、道中しばしば教えを乞い豊かな知識を披露してもらいました。ゴーゴリの歴史小説「タラス・ブーリバ」を彷彿させるような風貌、まさに騎馬遊牧民族の末裔と思われる顔立ちのエルデシュ氏はブダペスト国立大学ELTEで博士号を取得、45歳まで同大学で教鞭をとりながら日本語通訳、観光コンサルタントとして活動していましたが、1989年に来日、東京のテレビ局で通訳、翻訳に従事、その後観光局設立に尽力されたのでした。

エルデシュ氏

こんな思い出もあります。エリザベートさんが私たちにハンガリーのわらべうたを教えて下さり、バスの中の日本人参加者たちは日本の童謡を歌い、次から次へと思い付く歌を皆で合唱していったことがありました。そのうち「君が代」まで飛び出し、皆で何の不思議もなく歌い終えたところで、メンバーのひとりが「エルデシュさん、ハンガリーの国歌を教えて下さいよ。ねえどうか、歌って下さい」と言ったのです。そこで彼が答えるには「ハンガリー人にとって国歌を歌ってくれと言われても簡単には歌えないのです。国歌とは祈りのようなものです。人に向かって祈ってくれと言われて、簡単に祈ることが出来ないようなものなのです」と申し出を断ったのでした。

研修ツアーでハンガリーを一周してエゲルからブダペストに戻って来るや、エルデシュ氏は団から離れて一目散に駆け去ります。ご家族の許にでもいらしたかと思った矢先、手に一冊の本を携えてまた私たちのところへと戻ってきました。「自分で翻訳した本ですが、出版社から受け取るよりも前に書店に積んである一冊をお金を払って買ってきました」と嬉しそうに見せてくれたのは村上春樹「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」のハンガリー語版。表紙のデザインも自分なりのイメージで撮った写真を使ったと喜びを隠しません。
出版社のオファーが来る前に2年間掛けて仕上げた翻訳、村上春樹をハンガリーに紹介した最初の本でした。

エルデシュ氏はハンガリー政府観光局長を6年間務め上げた後、2004年にブダペストで通訳・翻訳会社Minatoを設立、彼の翻訳書としては夏目漱石「吾輩は猫である」、三島由紀夫「金閣寺」、星新一「肩の上の秘書」、滝口康彦「HARAKIRI(異聞浪人記)」などがあり、村上春樹の小説ではその後「羊をめぐる冒険」「ノルウェイの森」(ナジ・モニカとの共訳)「ダンス・ダンス・ダンス」「ねじまき鳥クロニクル」「海辺のカフカ」を出版、しかし残念なことに「1Q84」の翻訳半ばの66歳、2010年のクリスマス・イヴに天国へと旅立たれたのでした。

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